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文七元結

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以前、本ブログで、古今亭志ん朝と六代目三遊亭圓生について書いた。現在DVDで観られる両師匠の高座は多いが、その中に文七元結がある。筆者のゼミでも取り上げたことは前に紹介したとおりである。

文七元結は三遊亭圓朝の作と伝わる人情噺の傑作である。腕利きの左官職人の長兵衛が、出来心で博打にはまり、商売道具まで借金のかたに取られてしまう。仕事に行けず夫婦喧嘩も絶えない。見かねた、今年17になる娘のお久が、吉原の佐野槌と言う女郎屋に身を沈めてまでお金を作ろうとした。

この話の見所は沢山ある。長兵衛が、佐野槌の女将から50両という大金を借りて帰る途中、使いのお金をすられたと勘違いして吾妻橋のたもとから身を投げようとしている大店の手代文七に、逡巡の末借りた50両を渡してしまう場面もその一つである。翌年の大晦日までに50両を返せないと、お久は店に出されてしまうが、死ぬわけではない。文七を見殺しにできず、50両を投げつけてその場を立ち去ってしまう。

顔にぶつけられたものが本物の50両と気づいた文七の仕草、志ん朝、渾身の芝居を見るようである。一方、圓生は流れるように自然で、現場に居合わせているような錯覚を覚える。しかし、文七元結の白眉はこの場面ではない。

お久を前にした、長兵衛と佐野槌の女将のやり取りである。長兵衛に小言を言いながらも、お久の健気な申し出に心を動かされた女将は、気前よく50両の金を引き受ける。しかし、大晦日を一日でも過ぎたらあたしも鬼になるよ、お久を店に出すよ。志ん朝、圓生とも、凄みがある。

圓生は、二度、横目でお久を見る。そのとき、女将に鬼が潜んでいるのか、仏が隠れているのか。女将は、長兵衛の腕の立つのも、お久のことも小さい頃から知っている。博打に二度と引きずり込まれることのないよう、あえて鬼のふりをした親心と見るのは、生きるために身を売ることのない、現代人の甘さであろうか。

幸い、この噺は八方めでたしで終わる。落語であるから、涙あり、笑いあり、でよい。もう一つ、登場人物と一緒になって、噺の流れに吸い込まれる場面は、文七が番頭と一緒に佐野槌の名前を思い出そうとする場面である。ここでも志ん朝は大いに盛り上げてくれる。圓生はさらりと流して、吉原通いがばれた店のものの慌てぶりがリアルである。

志ん朝、圓生とも噺の空気は似ているのだが、演じ方が大分違う。DVDは、志ん朝61歳、圓生76歳の時の高座である。志ん朝があと10年生きてくれていたら、どんな噺になったであろう。

(メディア学部 榊俊吾)

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