高コンテクスト文化と低コンテクスト文化
2018年10月29日 (月) 投稿者: メディア社会コース
こんにちは、森川です。
4月に着任して、早いもので半年経ちました。
前期の終わりに、我が研究室にも13人の3年生が配属となり、後期からは毎週金曜日に「創成課題」の授業をしているのですが、先日の授業で講読した学術論文の中に、“高コンテクスト文化”と“低コンテクスト文化”に関する記述がありました。
皆さんは“高コンテクスト”と“低コンテクスト”の意味をご存知ですか?
“高コンテクスト”とは、実際に言葉として表現された内容よりも、言外の意味を察して理解するコミュニケーションの取り方を指します。
言わば「空気を読む」言語文化で、極端な例は我らが日本語だと言われています。
“低コンテクスト”とはその逆で、言葉にした内容のみが情報として伝わるコミュニケーションです。
ですから、「言わなくてもわかるだろ」は通用しません。
この言語文化の極端な例はドイツ語なのだそうです。アメリカやカナダなど、移民の多い国は低コンテクストの傾向が強い気がします。
日本語のような高コンテクストのコミュニケーションは、相手も自分と同じ価値観や常識を共有しているという認識がないと成り立ちません。
つまり、それだけ我々には共有意識が強いということでしょう。
これには良い面もあるとは思いますが、一歩間違うと「価値観の押し付け」や「余計な配慮」を生んでしまいます。
例えば…
私の住んでいる町には、面白い名前のカレー屋さんがあります。
人気作家の小説にも登場するような有名店です。
そのお店でカレーを注文すると、何と、男女でライスの量が違うのです。
男性のお客さんには女性のお客さんの1.2~1.5倍くらい量があるのです。
注文の時にライスの量の好みを聞かれるわけではありません。
男なら、女なら、と、自動的に店側が「配慮」した量で出てくるわけです。
大食いの友人(女性)は、最初それに気付かず、いつもわざわざ別料金で大盛にして注文していたそうです。
しかしある時、男性と二人で来店した際に、大盛にした自分のカレーの量と、普通に注文した男性のカレーの量が同じくらいなのに気付き、仰天。
確認してみると、何と店側が男女で「男盛り(おとこもり)」、「女盛り(おんなもり)」と区別していたことが発覚したのです。
店側にとっては、女性はあまり量を求めていない、男性は量を求める、だからお客さんから言われるまでもなく、良かれと思って最初から男女に合わせて適切な量を出している、という、まさに“高コンテクスト”な「察し」の文化があったものと思われます。
しかし、その「男らしい量」、「女らしい量」という店側の常識の、ある意味乱暴なカテゴライズの枠外にいる人への配慮は一切ありません。男性だってたくさん食べられない人はいるでしょう。女性だからというだけの理由で少ない量を出され、大盛料金を払い続けていた私の友人なんて、性別を理由に損をさせられていたと言ったら言い過ぎでしょうか。
もちろん“高コンテクスト”文化を全面否定するつもりはありません。
しかし、勝手な決め付けや判断で、言葉にして相手に聞くことなく、アクションを起こしてしまうと、時に大きな誤解や反感を生んでしまいます。
日本は“高コンテクスト”な文化圏であるという認識を持ち、自分が常識だと思っていることが、果たして本当に他人にとっても常識なのかを疑ってみること。
多様性が尊重される社会の実現のためにも、とても重要なことなのではないかと思います。
※ 画像のカレーと文中のお店とは一切関係ありません。
(メディア学部 森川美幸)
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