鉄道好きの人生(その4)「交通博物館」
2020年9月13日 (日) 投稿者: メディア社会コース
埼玉県大宮にある鉄道博物館ではない。神田万世橋にあった、交通博物館のことである。物心ついて以来、交通博物館には何度も連れて行ってもらった。今回の連載の最後に、交通博物館の思い出について触れてみよう。
1960年代初めの東京は、総武線の車窓に飛び込む、隅田川の黒く濁った色、鼻を突く悪臭、当時の象徴であるスモッグである。そして微かに記憶する、トロリーバスと都電、架線を天蓋にした銀座、日本橋の街並みである。余談であるが、この辺りも、母に連れられてよく出かけた。おそらく、浅草橋で都電に乗り、室町を経て日本橋に出て、三越、白木屋(現COREDO日本橋)、高島屋にはしごしたと思われる。当然、呉服巡りは子供には面白くなく、一人おもちゃ売り場、屋上で遊んでいた。あまりの多動ぶりに、母はいつも青ざめていたらしい。
さて、千葉から総武線に一時間ほど揺られ、今やまったく別の街になった秋葉原で降り、交通博物館に向かって、嬉々として父の腕をひっぱって行った。館内に入ると、大きなホールにC57が出迎え、吹き抜けの天井には、複葉機が浮かんでいた。大宮の鉄道博物館と違って、交通博物館には、自動車、航空機、船舶の貴重な展示もあった。しかし、もっぱら鉄道専門だったので、惜しいことに興味がなかった。幼い目に強く焼き付いたのは、図鑑で見慣れていた修学旅行用クハ167の朱と黄の鮮やかなツートンカラー、サシ151を模したこだま型食堂、重厚な石造りの階段、数々の国鉄型模型車両、そして屋外に展示された弁慶号である。その後も、小学校の低学年ぐらいまで通った。
閉館の決まった2006年、まだ幼い上の子を連れて、何十年ぶりに銀座線神田駅から万世橋に向かった。その建物(貴重なモダン建築であったという)、入場券売り場、玄関の古き良き佇まい、館内の喧騒、何もかも変わっていなかったように思う。手すりに触れるとひんやりとした石造りの階段も健在であった。子供は、「見てるばかりでつまんない」と不平タラタラであったが、じっくりと見聞を続けた。残念であったのは、当日特別公開されていた、旧万世橋駅遺構を見学できなかったことである。つくづく一人でくればよかったと思った。閉館されたその日は、奇しくも筆者の誕生日である。
(メディア学部 榊俊吾)
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