鷗外と漱石
2021年3月20日 (土) 投稿者: メディア社会コース
ブログといえども、専門外の領域で素人の稚拙な見解を披瀝するなどは慎むべきである。しかし、今日学生諸君から文学は疎か読書の話さえも聞かないことから、本に目を向けるきっかけになればと、ここ数年改めて読み始めた鷗外と漱石について記してみたい。
二人は、改めて言うまでもなく、わが国近代文学を代表する文豪である。その著作は多岐に渡り、筆者の総覧できるものではないが、主題の一つに自己を通した個人の存在と社会との関係があるように思う。鷗外が、多様な思想、価値観の中に自己を相対的に、経時的に捉え、いわばシステムとしての社会の中に個人の存在を位置付けるのに対して、漱石は、自己を突き上げるように内に向かい、社会との関係を、その最も近い男女の関係に還元しているように思われる。
まず管見によれば、鷗外近代小説集(全6巻、岩波書店)から気づくことは、鷗外には、事実及び歴史に対して真摯、従軍あるいは大逆事件という時代の渦中にあって思想信条の自由と正義を組織の中から訴える勇気、そして自身の文芸活動に対する社会の批判に応える寛容が見られる。
鷗外初の長編小説に「青年」がある。鷗外は、主人公小泉純一に自身のことを「竿と紐尺とを持って測地師が土地を測るやうな小説や脚本を書いてゐる人」と言わせている。ここに鷗外の創作上のいわば設計思想があるように思う。すなわち、社会の中に現に存在する、価値観、規範、習慣、因習、風俗、法制度、経済活動、そして生活などを事実として観察、記録し、小説という構築物に創作している。現に鷗外は日々これら社会の動きを克明に日記に残し、近代小説の中の多くの作品は、現実の社会の事実をもとに、というより事実そのものの中に構築されていると言って良い。
いわゆるドイツ三部作の、「舞姫」、「うたかたの記」、「文づかひ」には、留学中の体験、社会事情の正確な記録である「独逸日記」に基づき、作中の人物を通じて、当時の王侯貴族、学生、市井の人々の生活が活写されている。いずれも文語調であるが、かえって浪漫と異国情緒が醸し出されている。
「うたかたの記」では、バイエルンのルートヴィヒ二世の溺死事件を物語の背後に置き、一方「文づかひ」には、実際に出入りのあったドレスデン王宮を舞台にドイツ貴族社会の伝統に抗うイイダ姫の自立が描かれている。そして「舞姫」エリスとの悲恋物語は、ベルリンを舞台に展開される。鷗外自身との直接的な関係の真偽はさておき、主人公太田豊太郎の、
「(これまでの勉学を振り返り)余が幼き頃より長者の教えを守りて、学の道をたどりしも、仕の道をあゆみしも、皆な勇気ありて能くしたるにあらず、耐忍勉強の力と見えしも、皆な自ら欺き、人をさへ欺きたるにて、人のたどらせたる道を、ただ一条にたどりしのみ。余所に心の乱れざりしは、外物を棄てて顧みぬ程の勇気ありしにあらず、唯々外物に恐れて自ら我手足を縛せしのみ。」
「(免官の身から帰国の望みを前にして)余はおのれが信じて頼む心を生じたる人に、卒前ものを問はれたるときは、咄嗟の間、その答の範囲を善くも量らず、直ちにうべなふことあり、さてうべなひし上にて、そのなし難きに心づきても、強て当時の心虚なりしを掩い隠し、耐忍してこれを実行すること屢々なり」
は、エリスとの関係と社会的存在の承認要求との間で切り裂かれる、痛切な告白である。
それでも鷗外は、「測地師が土地を測るやうな小説や脚本を書いてゐる人」である。自己の生来の性質について、小説「百物語」の中で「僕は生まれながらの傍観者である。(中略)僕は人生の活劇の舞台にゐたことはあつても、役らしい役をしたことがない。高がスタチストなのである。さて舞台に上らない時は、魚が水に住むやうに、傍観者が傍観者の境に安んじているのだから、僕はその時尤も其所を得てゐるのである。」と語らせている。鷗外の小説は、現実社会の鳥瞰図になっているのである。
鷗外にとって自己の存在は、社会との関係によって規定されている。鷗外は、軍医として官僚機構の中枢に身を置き、近代日本の行く末を見据えて日々政策の遂行や制度設計に勤しんできた能吏であり、科学者である。したがって、鷗外にとって自己の存在は、為政者の敷く法制度、近代化の中で声高に主張を始める経済活動、歴史の作り出してきた規範、因習、風俗、習慣からなる社会の諸相の中で、様々な現実的な問題として問われることになるのである。
鷗外は軍医総監を退官後も、帝室博物館(現東京国立博物館)館長、帝国美術院(現日本藝術院)院長を務めるなど栄達を極め、その活躍の舞台は、社会の中枢にあって、医学に限らず、夥しいほどに多方面に渡っている。しかし、鷗外は「余は石見の人、森林太郎として死せんと欲す」と遺したのである。
(メディア学部 榊俊吾)
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