パウエル通りの話 その5
2022年1月 7日 (金) 投稿者: メディア社会コース
ここまで私は表題にパウエル通りと書きましたが、中ではパウエル街と書いています。パウエル通り沿いに発展した日本人街はその側の通りを含んで街となりました。また、鮭缶工場のあたりにあるスティーブストンも日系人の街でした。スティーブストンは、和歌山から来た漁師が多く住んでいましたが、自由に漁をすることや舟を持つことは日系人には禁じられていました。スティーブストンの人々の舟や漁の道具、パウエル通りの人々のお店、また日本人が集住するこによって生まれる味噌や豆腐や練り物などのお店は、日系人の移住によってなくなりました。それはただ、なくなっただけではなく、殆どの人が財産を処理する時間もなく、追い立てられるようにバンクーバーを出ることになったのです。
そして、カナダ政府はバンクーバーから追い出した日系人の財産だけではなく、アルバムなどのその家族やその人々にとってだけ大事なものを処分してしまったのです。カナダ政府やブリティッシュコロンビア州のしたことは、戦後大きな批判を呼びました。
先ほどから取り上げている森田さんは、そんな環境を受け止めて鶏を雛からかえすビジネスをしながらグリーンウッドで再三にわたって転居しながら暮らしていました。、
山崎 晶子
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