雑感

秋の夜長に読書

2026年10月 7日 (水) 投稿者: メディア技術コース

先日「反ミーム部門は存在しない」(ハヤカワ文庫SF)と言うSFを読んで久々に面白かった。

〝ミーム〟という言葉にはあまりなじみが無いかもしれませんが、遺伝子(gene)とギリシャ語の模倣(mimeme)を合わせた造語で、「脳内に保存され、他の脳へ複製可能な情報」を意味するとのこと。ややこしい言い方をしていますが、いわゆるうわさ話や、連綿とつながり、派生変化していく社会文化の類がこれに入ります。つまり、人を介して複製され、広がっていくという特性を持つもので、そう考えると、文化も風邪などのウィルス的な「人を介して自己を保存し進化し変化していく一種の形態」ともいえるわけです。このような概念を題材に「人の認識を通して存在をあらわにする異質な存在(アンノウン)」という敵対生物?をSFサスペンスにうまく取り込んだのが前出の「反ミーム…」で、終盤の着地はさておき、興味がある人は一読して欲しい気がします。

さて、こういう〝小説で読んで面白かった作品〟は、映画化したら面白くならないんだろうな、と思ってしまいます。いや、面白くなるかもしれないですが、映像化した時点で中核を占める”読者に求められている思索”の部分がごっそり抜け落ちて、全く別物に変わる気がするのです。

映画などの映像作品は、鑑賞時に情報の流れを鑑賞者の意思で任意に止めるようには作られていません。つまり鑑賞を一時中断し、じっくりと考えを整理し理解する必要がある作品には向いていない媒体だということです。逆に万人に分かるような速度で、複雑な思索部分を映像で説明しようとすると、とんでもなくそこに時間が必要になり、エンタメとしては成立しにくくなります。

近年の「プロジェクト・ヘイル・メアリー」(ハヤカワ文庫SF)の映画化も場面の映像化という点ではうまく作っていましたが、種々の問題を解決していく展開が話の中にぎっしり詰まっているため、映画の尺が足らない印象。どちらかというとあらすじを追いかけるのに手いっぱいで、思索部分の面白さは映画になった時点でごっそり落ちてしまいました(これは同じ著者の「火星の人」(小説)⇒「オデッセイ」(映画)も同じ印象です)。説明が観客の腑に落ちるまでの時間を確保できないので、ガジェット的にそれっぽい用語が飛び交うも、理解する前に、なんとなしに物語が進んでしまうことになります。

映像作品、特に単体の映画のような媒体では、“映像の進行と共に、じっくりと考えながら観る〟という楽しみ方は近年ではあまり求められていないように感じます(展開がもう少しゆるめなドラマやアニメだと、「回ごとに引っ張る」ことで思索の余地はまだ残されていますが…)。いわゆる〝タイパ〟を求める風潮ではそんなに説明に時間をかけられない、という所でしょうか? その意味で”推理小説”は映画化と相性が悪い印象もあります。謎解きが観客の腑に落ちる前に、話が勝手に飛んで行ってしまうか、謎そのものの説明が短くて済む超単純なものに置き換えられている場合が多いのです(もちろんうまく処理しているものもあります。例えば「屍人荘の殺人(2019)」や「ミステリと言う勿れ(2023)(こちらはマンガ原作でドラマの土台がありますが)」)。
近年の推理もの題材の映画化作品、例えば「八つ墓村」の新旧や、アガサ・クリスティものの映画化作品(最近の方ではケネス・ブラナー扮するポワロがアクションしたりするアレ)の違いを考えてみると、その見せ方の時代変化が分かるかもしれません。

と、ここまでごちゃごちゃと書いてますが、『小説原作を読まずに映像化作品だけ見てます』と言う人、映画と小説は表現できるものが別物なので、ちゃんと小説を読んだ方が面白い場合が多いですよ、というお話。

ーー
と、これだけではあまり情報が無いので、最近読んで面白かった推理小説(おそらく本で読んだ方がおもしろそうな)をいくつかご紹介。乱読なので、発表年が昔のものもあります。

  • 「奇岩館の殺人」高野結史著(宝島社):いきなり解決篇から始まるひねった推理もの。
  • 「medium 霊媒探偵 城塚翡翠」相沢沙呼著(講談社文庫):終盤ひっくり返してくる油断大敵な推理もの
  • 「紙鑑定士の事件ファイル 模型の家の殺人」歌田 年著(宝島社):蘊蓄(うんちく)語りが楽しい推理もの
  • 「地雷グリコ」青崎有吾著(角川書店):推理というよりロジカルなゲーム合戦

たまに、秋の夜長?に読書三昧はいかがでしょうか?

以上文責(メディア学部 永田)

 

2026年10月 7日 (水)

オープンキャンパスを終えて思ったこと

2026年8月26日 (水) 投稿者: メディア技術コース

渡辺です。みなさんこんにちは。

報告が少し遅くなってしまいましたが、8/2 に行われたオープンキャンパスにて研究室展示を担当しておりました。今回は体験授業等の担当はなく、研究室展示のみでしたので気楽にいたのですが、実際には大変忙しい思いをすることになりました。というのも、この日はたまたまゲーム関係の出し物や研究室展示が私の研究室以外にはなく、ゲーム系について見学を希望していた見学者が集中して来訪したためです。

展示では私は原則として案内役に徹し、実際の説明や質問応答は研究室学生にやってもらいました。そもそも、オープンキャンパスの研究室展示はあまり教員は出しゃばらない方が良いと考えています。というのも、オープンキャンパスで見学者が知りたいのは「この大学に入ると自分は成長できるのか?」ということであり、先生が色々話すよりも在学生が話す何がずっと説得力が高いことになります。

それはそれとして、非常に多くの高校生のみなさんやその親御さんに来ていただき、多くの質問もいただきました。この質問がこちらとしても大変参考になるものであり、本当に「貴重なご意見」となります。以前から今に至るまで非常に多い質問として、「勉強についていけるかどうか」の心配があります。メディア学部は世間的にはやや理系よりとしての認識があるようですが、実際のところ理数系科目に苦手意識を持つ学生も多く入学してきます。研究内容では数学やプログラミングを駆使したものもあるので、「理数系が苦手でも大丈夫ですか?」という質問は昔からとても多いです。これについての返答は一言で言うなら「ケースバイケースですね」となってしまうのですが、今回の本題とは外れるのでまた別の機会で詳しく議論したいと思います。

今年の特色としては、やはり AI に関する質問がとても増えてきたというものです。AI の普及により何が変化しているのかとか、AI によって今やっていることが無駄になるのではとか、そういった将来に関する不安を感じている人も多いなという印象でした。実際のところ、AI が普及することによって求められる人材像も変化があるのは確かですが、では具体的にどのような人材が重要となっていくのか、どういった人が淘汰されるようになるのかはまだ現時点ではなんとも言えないところで、重要なのは「易きに流れる事なかれ」ということでしょうね。AI を怠慢するためのツールとしてしか活用していないと、自身の価値を損なっていくのは確かです。

あと、印象的というか意外な質問として多かったのが、「忙しくないですか?」ということでした。昨今の大学生は大学の勉強や研究で非常に忙しいというイメージがあるようで、それを心配しての質問ということですね。たまたまかもしれませんが、そのような意図の質問が多かったそうで、展示担当学生達も驚いていました。

1980年代、90年代あたりの大学生は「勉強せずに遊んでいる」というイメージがかなり先行しており、「レジャーランド大学」なんていう流行語もありました。私もそういった時期に大学生活を過ごしていたこともあり、多少わからないでもないです。その時代に比べると、今の学生の方が勉強しているのというのはその通りかもしれません。しかしながら、じゃあイマドキの大学生がみんな「勉強で忙しくて遊んでない」というのはちょっと言い過ぎかなと思います。個人差のあることで一概に言えませんが、昔ほどではないにしろ、やはり大学時代というのは高校までや就職後に比べると自由な時間が一番ある立場だと感じます。遊ぶにしろ、勉強するにしろ、働くにしろ、あるいは何もしないにしろ、自発的に選べるということです。もちろんサボった人にはそれ相応の報いはやってきますが、それも含めて自身で選択できる時期です。入学した学生には、自分の選択を満喫してもらいたいと思います。

(メディア学部教授 渡辺大地)

2026年8月26日 (水)

私って,こんなに優柔不断だったっけ?

2026年8月21日 (金) 投稿者: メディアコンテンツコース

本ブログをご覧の皆様,こんにちは.

メディア学部教授 菊池 です.

最近,ちょっとしたことでもAIに聞くことが増えました。
文章を書いていて,「この表現,どっちがいいかな?」。何かを考えていて,「ほかにもっといい案はない?」。仕事で迷ったときにも,「あなたならどうする?」。

AIはすぐに答えてくれます。しかも,「Aの方がいいと思います。なぜなら……」と理由まで丁寧に説明してくれる。便利なので,ついつい聞いてしまいます。
でも,あるときふと思いました。

「私って,こんなに優柔不断だったっけ?」

以前なら,自分で考えて「よし,これでいこう」と決めていたようなことまで,最近はAIに「これでいいよね?」と確認している気がするのです。
もちろん,AIに相談すること自体が悪いとは思いません。自分では思いつかなかった選択肢を出してくれたり,別の視点を与えてくれたりする。私自身,毎日のようにAIを使っています。

ただ,「相談すること」と「決めてもらうこと」は,同じではありません。

AIが便利になればなるほど,知らないうちに私たちは,「考えること」だけではなく,「決めること」までAIに渡し始めているのかもしれません。

AIを使っていると,選択肢を出してもらう場面が増えます。タイトル案を10個出してもらう。文章を何パターンか作ってもらう。企画案を比較してもらう。買い物や旅行でも,「どれがおすすめ?」と聞けば,それぞれの特徴まで整理してくれます。
これは本当に便利です。自分一人で考えていたときよりも,短い時間でたくさんの選択肢を検討できるようになりました。ところが,選択肢が増えるほど,今度は「どれを選ぶか」で迷うことがあります。

すると,またAIに聞きます。「この中なら,どれが一番いい?」
AIは,そこにも答えてくれます。
気がつくと,選択肢を作るところから,それを比較して,最後に一つを選ぶところまで,すべてAIにお願いしている。便利になったはずなのに,自分で決める場面はむしろ減っているとしたら,少し不思議な話です。

もう一つ気になるのが,AIは単に「Aがいいと思います」と答えるだけではなく,その理由までとてもきれいに説明してくれることです。

Aがおすすめです。理由は3つあります。」

そう言われて,もっともらしい理由が並んでいると,「なるほど。じゃあAにしよう」と思ってしまいます。しかも,文章は論理的で,自信ありげに見えることもあります。

でも,本当はAとBのどちらを選ぶかは,自分が何を大切にするかによって変わるはずです。スピードを優先するのか,完成度を優先するのか。価格なのか,使いやすさなのか。それとも,理屈では説明しにくいけれど「私はこっちが好き」という感覚なのか。

AIは,それぞれの特徴を整理したり,比較したりすることにはとても役立ちます。でも,「あなたは何を大切にしたいのですか?」というところまで,AIに決めてもらう必要はないように思います。

そこで最近,私はAIに何かを相談するとき,「正解を教えてもらう」というより,自分が判断するための材料を増やしてもらうと考えるようにしています。
例えば,候補をいくつか出してもらう。それぞれのメリットとデメリットを整理してもらう。自分が良いと思っている案に対して,あえて反対意見を出してもらう。そうすれば,自分一人では気づかなかった視点を加えたうえで考えることができます。

ここまでなら,AIはかなり頼りになる相棒です。

でも,材料がそろったあとに「では,どれにするのか」を決めるのは,自分でいたいと思います。もちろん,自分で決めれば間違えることもあります。でも,自分で選んだのであれば,「なぜ自分はこれを選んだのか」「何を見落としていたのか」と,失敗した理由についても考えることができます。

逆に,最初から最後までAIに決めてもらっていたら,うまくいかなかったときに「AIがそう言ったから」で終わってしまうかもしれません。それでは,AIを使って効率化はできても,自分自身の判断はあまり鍛えられないような気がします。

AIは,これからもっと便利になるでしょう。私たちの代わりに情報を集め,候補を作り,比較し,「これがおすすめです」と提案してくれる場面も,ますます増えていくと思います。
だからといって,その便利さを遠ざける必要はありません。私自身,これからもAIにはたくさん相談するでしょうし,自分では思いつかなかった選択肢や,自分とは違う意見もどんどん出してもらいたいと思っています。

ただ,その先にある「私は,これにする」だけは,自分のところに残しておきたい。

最近,何でもAIに聞いている自分を見て,「私って,こんなに優柔不断だったっけ?」と思ったことから,そんなことを考えるようになりました。
AIがどれだけ賢くなっても,私たちまで「正解を出す機械」になる必要はありません。迷ってもいいし,ときには間違えてもいい。それでも,自分なりの理由を持って最後に決める。

AIに相談する。でも,最後に決めるのは自分。

今のところ,私はそのくらいの距離感がちょうどいいと思っています。

2026年8月21日 (金)

AIを使ったアウトプットって、不安にならない?

2026年8月19日 (水) 投稿者: メディアコンテンツコース

本ブログをご覧の皆様,こんにちは.

メディア学部教授 菊池 です.

最近、学生たちと話していて興味深いことがあります。
彼らは当たり前のようにAIを使っています。
レポートを書くときも、企画を考えるときも、プレゼン資料を作るときも、まずAIに相談することが珍しくありません。

私自身もAIを活用していますし、授業でもAIを積極的に活用するよう勧めています。
ですから、私はAI活用に否定的ではありません。
むしろ、これからの時代にAIを使わない方が不自然だと思っています。

しかし、学生たちと話していると、ときどき気になる言葉を耳にします。
「これでいいんですかね?」
「なんとなく不安なんです」
「自分で考えた気がしないんです」

私はこの感覚がとても興味深いと思っています。

AIを使うことで効率は上がりました。
以前より短時間で質の高い成果物を作れるようにもなりました。
それなのに、なぜ不安になるのでしょうか。

今回は、その不安の正体について考えてみたいと思います。


 

AIを使うことは悪いことなのでしょうか

まず最初に誤解してほしくありません。私はAI活用そのものに反対ではありません。

むしろ積極的に活用すべきだと考えています。

実際、AIは非常に優秀です。
情報収集、文章作成、アイデア発想、画像生成、プログラミング支援など、多くの場面で人間を助けてくれます。
私自身も日常的に利用していますし、研究や授業の準備でも欠かせない存在になっています。

学生がAIを活用することも、ごく自然な流れでしょう。
問題なのはAIを使うことではありません。
私が気になっているのは、AIを使った後に感じる「モヤモヤ」です。


 

なぜか疲れる

心理学や認知科学の分野では、考え続けることで生じる精神的な疲労を「認知的徒労感(Cognitive Fatigue)」と呼ぶことがあります。

通常、私たちは「AIを使えば楽になる」と考えます。
実際、それは間違っていません。

しかし、AIを使うことで別の種類の負荷が生まれることがあります。

AIが生成した文章を読む。
その内容を理解する。
本当に正しいのかを判断する。
自分の考えと比較する。
必要に応じて修正する。

一つ一つは小さな作業ですが、実はかなり頭を使っています。
そのため、「以前より楽になったはずなのに、なぜか疲れる」
という感覚が生まれることがあります。

私自身もAIを長時間使った後に、同じような感覚を覚えることがあります。
これは単なる疲労ではなく、AIとの対話によって生じる新しいタイプの認知的負荷なのかもしれません。


 

完成したのに満足できない理由

もう一つ興味深い概念があります。
心理学者アルバート・バンデューラが提唱した「自己効力感(Self-Efficacy)」です。

簡単に言えば、
「自分にはできる」
という感覚のことです。

人は試行錯誤しながら課題を解決したとき、
「自分でできた」
という経験を積み重ねます。

その結果として自己効力感が高まります。
しかしAIが大部分の作業を代行してしまうと、成果物は完成しても、

「自分がやった」

という感覚が弱くなることがあります。
レポートは完成した。
企画書もできた。
プレゼン資料も作れた。

しかし、「本当に自分の力だったのだろうか」という感覚が残る。

私は、この感覚が不安の一因になっているように思います。
成果物への満足感と、自分自身への納得感は、必ずしも同じではないのです。

不安の正体はAIではないのかもしれない

ここまで考えていて、私はあることに気付きました。

もしかすると、不安の原因はAIそのものではないのかもしれません。

AIはあくまでも道具です。
ハンマーや電卓と同じように、人間を支援するための存在です。

では、なぜ不安になるのでしょうか。

私は最近、「AIを使う前」と「AIを使った後」
に原因があるように感じています。


 

AIを使う前に考えているでしょうか

例えば学生にレポート課題を出したとします。

AIに質問すれば、それらしい文章はすぐに出てきます。

しかし、その前に

「何を明らかにしたいのか」

「なぜそのテーマを選んだのか」

「自分は何を知りたいのか」

を十分に考えていなければ、どれだけ良い文章が出てきても納得感は得られません。

実は、私はAIと壁打ちをしながら考えを整理すること自体は、とても良い使い方だと思っています。
学生の中にも、AIに質問を投げながら考えを整理したり、自分のアイデアを広げたりする人がいます。

それは決して悪いことではありません。

むしろ、AIを思考整理のパートナーとして活用していると言えるでしょう。

大切なのは、AIに考えてもらうことではなく、AIを使いながら自分で考えることなのだと思います。


 

AIを使った後に考えているでしょうか

もう一つ気になることがあります。

AIの出力を受け取った後です。

私たちは、ときどきAIの答えをそのまま受け入れてしまいます。
しかし、本来であれば、

「本当に正しいのだろうか」

「別の考え方はないだろうか」

「自分ならどう考えるだろうか」

と問い直す時間が必要です。

AIが優秀になればなるほど、この作業は重要になります。
なぜなら、人間は正しそうな答えほど疑わなくなるからです。


 

メタ認知という力

心理学には「メタ認知(Metacognition)」という概念があります。

簡単に言えば、

「自分自身の思考を客観的に観察する力」

です。

私は、AI時代に価値が高まる能力の一つが、このメタ認知なのではないかと思っています。

AIの答えを見る。
その答えに納得する。

しかし、そこで終わらず、

「なぜ自分は納得したのだろう」

「なぜ違和感を覚えたのだろう」

と考える。

この一歩が非常に重要です。


 

不安は悪いことではない

ここまで書いてきて、私は少し安心しています。

なぜなら、AIを使った後に不安になることは、必ずしも悪いことではないからです。

もしAIの出力を無条件に信じ込み、何の疑問も抱かなくなったとしたら、それは少し危険かもしれません。

しかし、

「これでいいのだろうか」

「本当に正しいのだろうか」

と感じるのであれば、まだ考えることをやめていません。

その違和感は、自分自身で判断しようとしている証拠です。

私はむしろ、その感覚を大切にした方が良いと思っています。


 

おわりに

AIはこれからさらに進化していくでしょう。

そして、多くの作業を人間の代わりに行うようになると思います。

しかし、その中で価値を失わないものがあります。

それは、

「何を考えるか」

「なぜそう考えるのか」

「その結果をどう評価するのか」

という人間の思考そのものです。

私は最近、

AIを使うことそのものよりも、

AIを使う前と後に何を考えているのかの方に興味があります。

もしかすると、AI時代に本当に重要なのは、AIの性能ではなく、人間の思考との向き合い方なのかもしれません。


文責:菊池 司

2026年8月19日 (水)

AIで作るのが簡単になって、失われそうなもの

2026年8月17日 (月) 投稿者: メディアコンテンツコース

本ブログをご覧の皆様,こんにちは.

メディア学部教授 菊池 です.

皆様は生成 AI をどのうような用途で使われているでしょうか?
日常的な会話の中で使われたり,調べものの際や,文章を考えてもらったりすることもあるかと思います.

生成 AI を活用して,画像や動画を制作したことがある人もいるかもしれませんね.

初めて生成AIで画像を作ったとき、「おお、こんなに簡単に作れるんだ」と驚いた人は多いのではないでしょうか。
文章を入力すると、ほんの少し待つだけで、それまで自分では作れなかったような画像が目の前に現れる。
文章でも動画でも、似たような経験をした人はいると思います。

私は、この「自分にも作れた」という感覚は、とても大切だと思っています。
生成AIによって、それまで作品を「見る側」「使う側」だった人が、突然「作る側」に回れるようになったからです。
専門的な技術を身につける前でも、頭の中にあるイメージを形にできる。
そこで初めて、ものを作る面白さを知った人もいるでしょう。

これは、生成AIがもたらした素晴らしい変化の一つです。

ただ、私自身もAIを使って制作をする中で、最近少し気になることがあります。
「作れるようになった」ことがうれしいあまり、出来上がったものまで、以前より簡単に「良い」と思うようになってはいないでしょうか。

「自分にも作れた」と「良いものができた」は、本当に同じなのでしょうか。

AIによって「作る」までの時間は、驚くほど短くなりました。
でも、その速さと引き換えに、私たちがいつの間にか省略し始めているものがあるような気がしています。

今回は、そのことについて少し考えてみたいと思います。

これまで自分では絵を描けなかった人が、生成AIを使って思い描いていた画像を作る。
文章を書くことが苦手だった人が、自分の考えを文章として形にする。
動画制作の経験がない人でも、短い映像を作れるようになる。
生成AIは、さまざまな分野で「作る」ための入口を大きく広げました。

これまで完成した作品を見たり、読んだり、楽しんだりする側だった人が、自分で何かを作る楽しさを知る。
もしかすると、AIがなければ一生「作る側」に回らなかった人もいるかもしれません。
私は、これはとても面白い変化だと思っています。

ただ、「自分にも作れた!」という感動は、とても強いものです。

自分で初めて作った料理が、いつもよりおいしく感じる。
初めて撮ったお気に入りの写真に、他の写真とは違う特別な価値を感じる。
それと同じように、AIを使って初めて作ったものにも、「自分が作った」という感情が加わります。

もちろん、その感情自体は決して悪いものではありません。
むしろ、ものを作り続けるための大切な原動力になると思います。

でも、ここで一度だけ立ち止まってみる。

「作れたことへの評価」と「出来上がったものへの評価」は、分けて考えた方がいい。

私はそう思っています。

生成AIで画像を作っていると、出てきたものを見た瞬間に「すごい!」と思うことがあります。
でも、少し時間を置いて見直してみると、「ここはおかしいな」「こっちの方が良かったかもしれない」と気づくこともあります。

面白いのは、AIが作るスピードが上がれば上がるほど、この「見直す」という行為を飛ばしやすくなることです。
次々と画像を生成できる。
文章もすぐに書き直せる。
動画もどんどん作れる。
作ることが速くなった結果、私たち自身も「次へ、次へ」と急ぐようになってはいないでしょうか。

でも、本来なら作品が出来上がったあとには、それを見る時間があるはずです。
「本当にこれでいいのか」
「自分が作りたかったものになっているか」
「どこかに違和感はないか」。
他のものと比べたり、人に見てもらったり、もう一度修正したりする時間です。

AIによって短くなったのは、本来なら「制作にかかる時間」のはずです。

「考える時間」や「見る時間」まで短くする必要はありません。

むしろ、AIが作る作業を速くしてくれたのなら、そのぶん人間は「見ること」に時間を使ってもいいのではないかと思っています。

ここで誤解してほしくないのは、「AIを使うと人間の見る力が失われる」と言いたいわけではないということです。
AIが、私たちから何かを強制的に奪っているわけではありません。

私が気になっているのは、あまりにも簡単に作れるようになったことで、
私たち自身が「よく見る」という行為を省略するようになってしまうこと
です。

出来上がったものから少し離れて見る。他のものと比べる。
「なぜ自分はこれを良いと思ったのか」を考える。
違和感があれば、その理由を探してみる。
そうした時間は、AI以前よりむしろ大切になっているのではないでしょうか。

これは画像や映像だけの話ではありません。
AIに書いてもらった文章でも、作ってもらったプレゼン資料でも、考えてもらった企画でも同じです。

AIから何かが返ってきた瞬間を「完成」にしない。

一度、自分の目で見る。
それだけでも、AIとの付き合い方はかなり変わるような気がします。

生成AIによって、それまで作れなかった人が「作れる人」になった。
私は、それ自体はとても素晴らしい変化だと思っています。
だからこそ、「自分にもできた!」という喜びは大切にしたい。
でも、その喜びと「良いものができた」という評価は、少しだけ分けて考えてみる。

AIが作る作業を助けてくれるのであれば、出来上がったものをもう一度、自分の目で見てみる。
「本当にこれでいい?」と、自分自身に問いかけてみる。

AI時代に必要なのは、もっと速く作ることだけではないのかもしれません。

AIで作るのが簡単になった時代だからこそ、私たちは「見ること」を手放さない。

最近、私はそんなことを考えています。

文責:菊池 司

2026年8月17日 (月)

映画の温故知新を考える

2026年8月 3日 (月) 投稿者: メディア技術コース

やっと前期の授業もひと段落し、定期試験期間も終え、少し余裕が出て来た今日この頃。
前期では「メディア専門演習」で”映画字幕制作”という地味な演習をやっておりましたが、いまさらながら、参加した学生の感想をぽつぽつと読んでいます。いろいろな意見を頂いていますが、読んでいると、
「自分では絶対見ない映画を…」
「今の映画を見慣れていると、昔のモノクロ映画は…」
「普段カラーの付いた邦画を主に見ていると、昔の映画は…」
など、”題材が古い”みたいな感想が多いようで。映画の題材を合法的にネットからダウンロードできるものに限っていると、モノクロだし、皆さんの知らない映画になるようです。まあ、皆の知る新しい映画ならよい映画、というわけでもないのですが(個人的にはモノクロ、カラー問わず良い映画は良いと思うのです…。ちなみに今期は「第七天国」「殴られる彼奴」「ロイドの要心無用」のサイレント、「キング・コング(1933)」「極楽特急」などのトーキーを題材にしました)。

さて、中に「普段なかなか映画を観ないので(中略)英語の映画は自分から見ることが無いので…」というコメントもありました。普段そんなに映画を観ないのか!と新鮮な気持ちになりました。この辺りは映画以外にも娯楽が多様化しているということでしょうか。

昔の映画雑誌などをぱらぱらとめくっていると、昔(といっても1970年代くらい?)は映画は“高尚な趣味”という位置づけで、文学のように“深く意味を読み解く”という側面も結構ありました。娯楽重視に偏った近年に比べて、幅広いジャンルを網羅していた時代と考えることもできます(今も幅広い分野はありますが、メジャーなタイトルの芸術作品が、大きな映画館に長期間かかることは少なくなってきましたよね)。
現代は、”娯楽から文芸までを網羅していた映画”の層が、どんどん薄くなってきているような気もします。いわゆる“芸術的”で“難解”なものは一般に受け入れられなくなってきているのでしょうか?(そして、”わからない”と逆に開き直って冷笑し、観るのを拒絶する人も多くなっているような…)

幅広い時代にまたがって映画を見ていると、昔は面白かったものが、今の時代では合わなくなったもの、というのも存在します。その逆も真で、昔は駄作扱いだったものが、今見てみると新鮮な良い題材というケースもあるのです。ただし、駄作を顧みる人は少ないので、過去作の中に光るものは存在していても埋もれたママになる感じでしょうか。Entame_sinka

どんどん時代が進んで観客側の好みに迎合して題材が分化、進化してしまうと、いわゆる”尖った””ウケない”作品が出て来にくくなります。作られる作品の絶対数が少ないと、そんな儲かるかどうか分からない作品の制作はなおのこと避けられるのでしょう。これはどんな文化にも言えて、ウケる作品ジャンルが固定化するとそれ以外のものが出て来づらくなります(近年のマーヴェル映画一色時代(そろそろ終焉?)を見ても分かりますが…)。そうして、一般的に平均的な内容の均された品質のものが量産され、飽きられていく感じになります。

言い換えると、エンタメの進化の枝分かれの先っぽで最適化されてしまうと、同じような作品ばかりが量産され、そこからもっと過去の方で分岐した(絶滅した)枝には移りづらくなるというイメージです。その意味で分岐の先っぽの方に位置している作り手が、その時代の新しいものを生み出すためには多岐にわたったアイデアが豊富だった分岐前の”古い”時代までさかのぼって題材の可能性を改めて吟味する必要があるように感じます。まあ、つまり、いろいろと自分好みではないものも掘ってみないといけないという話です。これって、いわゆるAIで作った絵は一般の好みが入っているけれども、尖ったものが無くなっている、という感覚と似ている気もします。

そう、古いものを否定するのではなく、今失われている原初的な感覚を求めに過去作に触れていくのが正しいと思うのです。ということで(むりやりな結論ですが)今週8月1週目の早朝の「暴れん坊将軍」再放送では、いよいよ八王子に彗星が落ちるSF回が放映されるようです(第9シリーズ 19話「江戸壊滅の危機! すい星激突の恐怖」(1999年4月29日放映)←副題からしてかなり攻めてますよね)、かなり尖った作品です(いや、フォーマットはいつもと同じだけど)。忘れないように録画せねば、と気持ちを新たにするのでした。(以上文責:MS 永田)

2026年8月 3日 (月)

サッカーW杯とテクノロジー②

2026年7月 8日 (水) 投稿者: メディアコンテンツコース

メディア学部の栗原です。

前回に続き、サッカーW杯とテクノロジーの話について書いていこうと思います。

 

前回は技術で実現される観戦体験についてでしたが、観戦だけでなく競技そのものにも影響を与えていることにお気付きでしょうか。

例えば、ボールがゴールに入ったかを判別するゴールラインテクノロジー、VARとそこで使われる半自動オフサイドテクノロジー、先日使用されたコネクテッド・ボール・テクノロジーなど、主に人の目では限界のある判定に技術が多く寄与しています(野球でも投球判定が機械化され始めていますね)。

実はこれらは今回のW杯で初登場というわけではないのですが(コネクテッド・ボールはEURO 2024で初めて見て衝撃を受けました)、やはりW杯ということで大きな注目を浴びています。

もちろん賛否はあると思いますが、観戦体験だけでなく競技の公平性にいかに貢献するか、という視点で観てみるのも面白いかもしれません。

 

今回はここまでにしたいと思います。

2026年7月 8日 (水)

サッカーW杯とテクノロジー①

2026年7月 6日 (月) 投稿者: メディアコンテンツコース

メディア学部の栗原です。

普段はイベント告知ばかりなので、少し時事ネタで記事を書こうと思います。

 

ネタについてですが、やはり今はサッカーW杯ですね。

私は元々配信サービスに加入しているので全試合を観ること自体は可能なのですが、時差もあってあまり観れていません。

さて、その配信サービスのCMで知ったのですが、新しい観戦体験としていくつかの取り組みがされているようです(私は使っていませんが...)。

例えば、サッカーゲームのように画面下部に選手がピッチ上のどこにいるのか、誰がボールを持っているのか、シュートの速度がどれくらいなのか表示されたり、自分がピッチ上にいるかのような映像が観れたりなど12年前(4年に1度なので...)にはなかったような観戦ができるようになっています。

これらはスタジアム自体の機能はもちろんですが、映像からの画像処理技術(+AI)の賜物と言えると思います。

もちろんそれ以外にもネットワーク技術などたくさんの技術が使われていると思います。

今はまだ難しくても、12年後はどのような観戦ができるようになるのか、優勝国とともに想像してみるのも面白いかもしれません。

私は専門ではないのですが、メディア学部にはこれらの技術の専門の先生方がいらっしゃいます。

将来、メディア学部発の面白い観戦方法が普通になっている未来もあるかもしれません。

 

今回の記事はここまでにしたいと思います。

2026年7月 6日 (月)

アテネに行ってきました(学会 CUMULUS Athens 2026 参加報告)

2026年6月26日 (金) 投稿者: メディア技術コース

先月のゴールディンウィーク中に、ギリシャの首都であるアテネに行ってまいりました。

飛行機はアテネへの直通便が無いためどこかを経由する必要がありました。イスタンブールが便利そうなのですが、イランの情勢などを考えて避けたほうがいいのでは、という旅行業者のアドバイスに迷ってしまい、ウィーン経由にしたのですが、もうアテネに着いているのにそれを飛び越えてウィーンまでさらに2時間…。行った経路をまた戻ってくる感じで、ただでさえ長い(14時間くらい…)フライトなのに、精神的なダメージも大きかった… これをまた帰路で繰り返すのかと思うと気が重くなります。

 

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      アテネが過ぎていく〜

 

まあ、こんな感じで、東京からホテルに辿り着くまでが長かったこと。飛行機の中で一泊した感じなので、ホテルに着いたのは昼くらいでした。ということで、さっそく学会に向けての準備…

 

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      学会に向けて、気持ちの準備を…

 

さて、翌日から学会が開始です(安心してください、出席しますよ…)。

私は海外で、公共交通機関を利用することが好きなので、会場の大学までも電車を利用しました。アテネの電車の切符は、時間単位で購入するようになっていて、その時間内なら乗り降り自由なようです。そして、出口の表記がなんと、Exodos!出エジプト記ではないですか。ということで、モーゼの気分で駅からでていくことに。

 

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  電車はアテネ市内を移動するのには便利

 

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Exodos!ギリシャ文字ですが、数学でおなじみなのでなんとなく読める?

 

駅から歩いて、会場となる大学につきました。

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初日に発表だったのですが、時間管理がすごくルーズで、開始予定時間前に会場にいっても誰もいない(チェアマン:司会さえ居ない…)。1番目の発表予定のイスラエルの研究者と、いったいどうなっているんだ、と文句を言ってたのですが、結局なんのアナウンスもなくはじまったのが30分後。お国柄とはいえ、学会でそんなことがあるとは…

 

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      堂々と発表する私…

 

発表以外では、他の研究者との交流も国際学会では重要なミッション?です。いろいろ話かけて、というのも今回の学会では日本人は私だけのようでした。顔見知りを作っておかないと、学会中ずっとぼっちになってしまいますから、適当に愛想を振りまいておくことが大切です。そんな交流から、大学間の連携をしたいというようなメールを後からいただいたりしますから、そういう意味でも大切な要素ですね。

 

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       仏、西、印、伊、希、愛、英の方々とお近づきの機会を…

 

また、菌を利用した素材作りという面白いワークショップにも参加してみました。主催の人(博士課程の学生でした)といろいろ話をして、共同研究に繋げる可能性もできました。

 

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  ワークショップの様子

 

学会では、最後にExcursionといって、その地の文化を紹介するツアー(遠足)が提供されることが多いですが、それにも参加したり、それ以外にもちょっと散歩したり。

 

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ギリシャに行ったのは今回が始めてでした。特に、街中の文字が多くのヨーロッパの国と違ってギリシャ文字なのが新鮮でした。学会は、自身の研究発表だけでなく、他の研究者との出会いと異なる文化体験ができて参加してみれば楽しい経験なのですが、飛行機に長々と乗るのさえなければといつも思います。また、今回は宿や食事などの物価の違いを感じました。めちゃめちゃ高い。あと、航空運賃も…

 

 

太田

2026年6月26日 (金)

人間工学と持続可能な社会 ― 学会大会参加報告

2026年6月 5日 (金) 投稿者: メディア技術コース

メディア学部技術コースの盛川です。

2026年5月23日から24日に開催された日本人間工学会第67回大会に参加してきました。今回は以下のテーマで発表を行いました。

  • 盛川浩志,佐藤 健,HMDによるMR映像を視聴しながらの歩行に関する検討,日本人間工学会第67回大会,2H1-05,2026/5/24

毎年開催されている学会大会ですが、本年度の大会テーマには「Beyond SDGs -持続可能な社会を支える人間工学」 が掲げられていました。

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人間工学分野の国際学会連合組織であるIEA(International Ergonomics Association)の会長、Andrew Thatcher氏による基調講演では、今後は環境問題も人間工学が取り組むべき重要な課題になるという話がありました。これまで人間工学では、人が働きやすい環境やシステム、道具といった、人と直接関わるものを対象とした研究が多く行われてきました。しかし、環境問題のような世界規模・地球規模の課題にも視野を広げていこうという考え方は、非常に刺激的で新鮮な視点でした。

研究室で卒業研究のテーマを考える際には、身近な話題や最近の流行から着想を得ることが多かったのですが、このように一歩、二歩引いた立場から社会全体を俯瞰し、そこに存在する課題へアプローチすることも、挑戦的で興味深い研究テーマになり得るのではないかと考えさせられました。

今年の大会では、人間工学会が提言している、「持続可能な人間工学目標2040(SEGs2040)~SDGs時代に求められる人間工学未来アクション・ビジョン~」に沿って発表セッションを分類するなど、新しい試みが多く見られました。この提言では、人間工学が取り組むべき課題について、SDGsに対応した目標が設定されるなど、将来に向けたビジョンが示されています。

メディア技術分野の研究においても、ゲームや映像、音楽といった身近なコンテンツだけでなく、それらが社会にどのように貢献できるかという視点をもって課題に取り組むことの重要性を改めて実感しました。今後の研究テーマの考え方を見直すきっかけとなる、多くの知見が得られる貴重な機会となりました。

2026年6月 5日 (金)

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