雑感

【学部長Blog003】コンテンツとの出会い(1)

2025年4月20日 (日) 投稿者: メディアコンテンツコース

メディア学部長の三上です.

今回は,現在の研究テーマとなっているコンテンツとの出会いについてお話ができればと思います.
私の生まれは1972年で,いわゆる団塊Jr.世代(第2次ベビーブーム世代)です.政府の人口動態調査によると2,038,682人ですから,2024年の720,988人と比較すると3倍近いですね.

私の幼少時代から学生時代にかけては遊び,娯楽がアナログからデジタルに変化していった時代なのかなと思っています.私が生まれたのは東京近郊というか神奈川の南の横須賀というところ(の中でもかなり南の方)です.海岸まで1分,野山(山椒魚がいるような清流もあった)は3分ぐらいの環境なので,おのずから野生児さながらの少年時代を送ります.半面,子供が遊びに行ける繁華街は横須賀中央にありましたが,映画館も規模が小さく,コンテンツに触れるにはいささか不便な場所でありました.

そのころの遊びはというとまさに昭和のレトロな遊びそのもの.公園のような整備された環境があまりなく,自然を生かしての遊びがほとんどでした.海岸はそれなりに砂浜があったので,野球(ソフトボール)やったり,山や小川で昆虫採集したり,空き地でケイドロや鬼ごっこなどと,いわゆる昭和の遊び満載でした.また,近所に住む親戚が工務店を営んでいて作業場があったので,余った木切れとかをもらってきて加工して船を作ったり竹馬作って遊んだりなどしていました.(今でも木工やDIYが比較的できるのはこのころの経験のおかげです)

そんな,昭和の野生児丸出しで野山を駆け巡っていたころ,世間では「インベーダーゲーム」ブームが爆誕します.1980年ごろは小学校3年から4年生にかけての時期でしたが,当時はその年齢でゲームセンターに行ってゲームをやるのはなかなかに難しい時期でもありました.多くの私の周りの同年代の研究者も同じように,興味はありつつもなかなか近づけない時代を感じていたのではと思います.
そしてほぼ同じ時期に爆誕したブームが「ガンプラ」ブームです.こちらは欲しくても売っていないから買えないという時代(今も近いかな)です.ケータイもSNSもないので,どこかのお店に入荷してもその情報はわかりません.ですので,自転車に乗って近所のおもちゃ屋さんをぐるぐる回る日々が始まります.海や野山をかけずりまわり,ガンプラ入荷のうわさが出ると自転車を走らせておもちゃ屋を回り,いつかはいりたいなとゲームセンターを遠目に眺めるという少年時代が続きます.

そんな少年時代に大きな影響を与える出来事が,1980年台中盤に立て続けに起きます.それは,「ファミコン」の誕生と「レンタルビデオ」の普及です.それまで,近づけなかったゲームセンターや行きたくても行けなかった映画館がいつでもアクセスできるようになる,まさに革命的変化が起きるのです.

次回は具体的に少年時代に遊んで現在でも記憶に残っている作品について紹介できたらと思います.

20250420かけずりまわった海岸です

 

2025年4月20日 (日)

アーティストの社会学

2025年3月28日 (金) 投稿者: メディア社会コース

昨年11月9日・10日、京都産業大学にて第97回日本社会学会全国大会が開催されました。

今年は新たなテーマセッションとして「アーティストの社会学」が設けられ、ボディビルダー、バーテンダー、ロックバンド、演劇、アートセラピー、女性や移民としてのアーティスト...などなど、「美意識」に関係する幅広い人間の活動を分析した研究報告がおこなわれました。

「アーティストの社会学」ってなに?という疑問を抱く多くの方に向けて、簡単に説明してみたいと思います。

 

「好きなことで生きていく」って本当にできるの?

「好きなことを仕事にしよう」「クリエイティブな仕事で生きていく」——こうした言葉を一度は耳にしたことがあるかもしれません。YouTuberやデザイナー、ゲームクリエイターなど、自分の創造力を活かして働くことに憧れる人は多いでしょう。

しかし、本当に「好きなこと」で生きていくことは可能なのでしょうか? そして、その働き方はどんな未来をもたらすのでしょうか?

イギリス・ロンドン大学ゴールドスミス校の名誉教授で、文化研究者のアンジェラ・マクロビー(Angela McRobbie)は、著書『クリエイティブであれーー新しい文化産業とジェンダー』(花伝社、2023)のなかで、クリエイティブ産業における労働の現実について考察しています。

もともと、アートやデザイン、音楽などの仕事は、資本主義的な労働のルールに縛られず、自由な自己表現を追求する場とされてきました。ところが、現在のクリエイティブ産業では、むしろ「好きなことを仕事にする」ことが、労働の無限搾取につながってしまっているのです。

クリエイティブな仕事には、明確な労働時間の境界がありません。たとえば、デザイナーや映像クリエイター、ライターなどの仕事では、「もっと良いものを作りたい」という情熱があるがゆえに、仕事とプライベートの境界が曖昧になり、際限なく働いてしまうことがよくあります。また、「好きなことをやらせてもらっているのだから」という空気感が、正当な報酬を支払ってもらえない一因になってもいます。

マクロビーはさらに、フリーランスの世界のジェンダー問題にも警鐘を鳴らします。プロフェッショナルな訓練を長く受けてきた女性であっても、育児や家庭生活とを両立する制度が整っていないことが原因で、安定的にキャリアを築けないことを指摘しています。実際、多くの会社員の女性が受け取れる産休育休手当がありますが、フリーのカメラマンやデザイナー、アーティスト、ダンサーの女性たちはこれを受け取ることがでません。

社会学的視点を持つことの大切さ

「好きなことで生きていく」ことは可能ですが、持続的なキャリアを築いていくためには、労働の仕組みや社会的な課題について理解することが必要です。日本社会学会のテーマセッション「アーティストの社会学」は、マクロビー氏の問題提起を手がかりに、それを日本の文脈や状況と接続させながら、アーティストの生き方を支えるための社会制度や方法論を考える場となりました。

本学でメディア学を学ぶ皆さんも、映像、ゲーム、広告といった分野で活躍する際に、クリエイティブなスキルだけでなく、労働の仕組みや社会構造について考え、これらを改善しようとする視点を持ってみませんか?

 

2025年3月28日 (金)

日光

2025年2月12日 (水) 投稿者: メディア社会コース

先日書いた曾祖母は福島県二本松から山の麓に逃れてその人生をそこで過ごしたが、父方も戦いに敗れたが上京して教育を受け、その成果をもって故郷に帰った。そのため、19世紀に生まれた曾(?)祖父は、その昔は資料館があったらしいが、現在はホームページでその写真も見ることがで出来る。郷土の出身者として市が曾祖父に関する本を発行してくださって末裔のしんがりにいる私としてもありがたい限りである。しかし、その曾祖父が何を語ったのかは私は聞いたことがない。

 親戚というのは遠すぎるが父方の曾祖母のいとこは、巌頭之感 という遺書をしたためて日光の華厳の滝で亡くなっている。親戚は様々なことを伝えてくれて、それはここにあるwikipediaにあるものとは少し違う。15歳の時にその言葉を初めて読んだ時と異なり若い人を長年過ごしてその可能性を知った今の私は、どんなに切羽詰まった状況にあっても、後もう少し生きてくれれば必ず何かチャンスがあったのにと思うばかりである。

                      山崎晶子

2025年2月12日 (水)

鱈のすまし汁

2025年2月10日 (月) 投稿者: メディア社会コース

二本松にいた曾(?だと思います)祖母は、戊辰戦争の二本松の戦いで二本松が敗れ、二本松少年隊の最期に居合わせて、現在でいうところのPTSDになったそうである。大人だけではなく、近所の子どもが戦でこんな形で亡くなるのを見たのだから無理はないし、そのことを思うと胸が痛くなる。また、彼女は関東大震災を山の麓から見て甚だショックを受けたそうである。

でも、私が彼女を最も強く思うのは、この標題にも書いた鱈とわかめのすまし汁をたべた時である。彼女から伝わったレシピはとても簡単で、1.生臭みが出てしまう鱈を霜降りにする。2.乾燥わかめの場合は戻して切る。3.すまし汁にその二つを入れる。これだけである。

 鱈の季節になると、骨が面倒だなでも美味しいなと思いつつ、大変な人生だった彼女も家族とこれを食べて幸せを感じたことを願い、平和な世を望む。

 

   山崎晶子

2025年2月10日 (月)

卒業論文の提出

2025年1月15日 (水) 投稿者: メディア技術コース

みなさん、こんにちは。

2024年度のメディア学部卒業論文の提出締切は明日2025年1月16日です。私の研究室では2024年の12月から論文作成を始めていましたが、年内はまだ、書けない章を抱えている学生が多く、評価実験を並行している学生もいてなかなか大変でした。年末年始は大学も閉まってしまい、各自が自宅等で論文に取り組む必要があります。そのため論文をどう仕上げるかの「宿題」を出して休みに入ったのですが、1月7日に年明け最初のミーティングを行って確認してみると、予想より進んでいる学生とそうでない学生にはっきり分かれていました。その後の一週間の間に修士課程1年生の中間発表会や学会発表の申込、原稿提出などもあり、卒論指導も行う、まだ授業もある、と近年では私の研究室にとって最も忙しい一週間でした。

それでも、毎年のことなのですが提出直前の10日間くらいで学生の皆さんは底力を見せてくれます。自分がそれまで進めてきたことを整理して文章化していく中で、それまで以上に自分の研究に対する理解が深まるのだと思います。それまでになかった図表などが増えグッっと内容が濃くなります(もう少し早くそこに至ってほしい!)。あとは提出が間に合うか。公式な締切時刻の前に、研究室内部の締切時刻を設けて余裕を持たせてはいるのですが、なぜかギリギリになってしまう学生が出てきます。明日はドキドキしないで済むといいのですが。

(メディア学部 寺澤卓也)

2025年1月15日 (水)

昔話の続き NetNews

2024年12月27日 (金) 投稿者: メディア技術コース

メディア学部の寺澤です。

前回に引き続き、昔話にお付き合いください。

前回はArchieやGopherなどのお話でしたが、今回は、そもそも、このような新しいツールの情報をどうやって得ていたかというお話です。繰り返しますがWWW前です(当然SNS前です)。UNIX magazineなど、貴重な雑誌も数種類あったのですが、多くの情報が流通していたのがNetNewsです。NetNewsはNNTPというプロトコルを用いて主に文字が主体の「投稿記事」を流通させる仕組みです。記事の見た目はメールにとても似ています。記事はカテゴリごとに投稿先(ニュースグループ)が決まっており、利用者は専用ソフトを使って記事を読んだり投稿したりしていました。

こう書くと現在のインターネットにもある掲示板のように見えると思いますが、仕組みは大きく異なっています。当時のインターネット環境にも依存しているのですが、各地にニュースサーバがあり、サーバ間で定期的に新しい記事が受け渡される形で記事が伝搬していました(バケツリレー方式)。読者は近くのニュースサーバに接続して利用します。元はアメリカで開発されたものですが、日本語が使えるように改良されて使われていました。したがって、英語の記事も日本語の記事もありましたが、これらはニュースグループのカテゴリで分けられていました。これにより、アメリカでの最新の情報にも、やや時間はかかりますが、近くのサーバまでやがて記事が伝搬してくるので触れることができたのです。

英語のニュースグループは comp.* (*にはさらに細分化されたカテゴリarchやlangなどが入ります)や soc.* など、日本語のニュースグループには fj.*(fj.comp.*、fj.comp.lang.*、fj.net.*、fj.rec.*、fj.rec.sports.ski、fj.miscなど)のほかjapan.*などがありました。技術系の記事はとても勉強になるものが多かったです。プログラミングの様々な話題やLaTeXのスタイルファイルの記事など、大変助けられました。また、新しいソフトの情報や入手先などもこちらで仕入れることが多かったです。

この時代でも立場や解釈の違いによる論争はありましたが一部を除いて抑制が効いていました。情報の流通がゆっくりなので炎上というような形にはなりません。記事を見ていると次々と新しい情報がやってくるのでずっと見続けてしまい、次に記事が来る時間が待ち遠しい、というような現在のSNSと同じような中毒効果はありました。NetNewsもWWWの時代になって以降、すたれてしまい、今は動いているサーバはほとんどないのではないかと思います。しかし、当時はとても貴重な情報源でした。

(メディア学部 寺澤卓也)

2024年12月27日 (金)

昔話の続き Archie と Gopher

2024年12月25日 (水) 投稿者: メディア技術コース

メディア学部の寺澤です。

インターネット昔話が続いているので便乗します。

現在のインターネットは1980年代半ばはまだ研究レベルのもので一般開放されていませんでした。私が学部4年生でコンピュータの研究室に入った当時、その大学は国内でもインターネット研究では最先端の機関の一つで、身近な研究室がその現場でした。彼らとはコンピュータ環境を共有していましたし新人教育も一緒でした。したがって当時から電子メールで連絡を取り、研究に必要なファイルやソフトウェアはftp(ファイル転送プロトコルFTPを実装したプログラム)で取得していました。Window 3.0が出る頃、MacはMacintosh SE/30くらいの頃です。研究室で使っていたのはSun MicrosystemsやSONY(!)のUNIXワークステーションでした。GUI(X-Windowシステム)が使えるものでした。

WWW(World Wide Web)が Tim Berners-Lee によって開発・公開されたのが89年から91年にかけてのこと。WWWがブレイクしたのも1992年にMosaicというブラウザが開発されて以降と記憶しています。私は大学院生でした。初めてMosaicをインストールして使ったときのことは今でも覚えています。

では、ftpの時代からWWWの時代になる間の数年間、どういうネット環境だったのかというのを私の体験的にお話しすると、まず、Archieというシステムがありました。ftp(anonymous FTP)を使うにはどのサーバのどこに目的のファイルがあるのか知らなければなりません。今のURLのような情報が必要でした。しかも検索するすべはありませんでした。これを検索できるようにしたのがArchieでした。研究に有用なソフトウェアやツールを入手するために使っていました。次に登場したのがGopherです。ソフトを探すというためではなく情報(主に文字で表現された情報(ファイル))を検索するための物でした。情報がハイパーリンクでつながっているWWWとは異なり、メニュー(目次?)が用意され、検索するシステムでした。

すぐ後にWWWがやってきたので、ArchieもGopherもその後はあまり利用が広がらず、結果的にWWW登場までのつなぎの役割を果たしていました。現在はどちらのサーバーもほとんど稼働していないようですが懐かしいツールたちです。CISCからRISCに移行が始まり、SPARCやMIPS R3000を使ったワークステーションに触れるなど、刺激の多い時代でした。

(メディア学部 寺澤卓也)

2024年12月25日 (水)

ネットは業務に関係ないことだけに使ってください。

2024年12月23日 (月) 投稿者: メディア技術コース

メディア学部の大淵です。

柿本先生の記事を読んで、私もインターネット黎明期のことを思い出したので、紹介してみようと思います。

私が大学を出て最初に就職したのは1992年のことで、勤務先は企業の研究所でした。その頃すでに電子メールなどは使っていたのですが、会社に情報システムの部署というのは存在せず、ネットワーク関連の研究をしている人が、ボランティアでサーバーの管理などをしていました。

その頃、ネットの使用について注意されていたことがあります。

「ネットの使用は、業務に関係ないことだけにしてね」

今だと、業務に関係ないネット使用を禁止している会社は多いと思いますが、その反対です。「明日飲みに行かない?」とか「日本シリーズ盛り上がったねえ」とか、そういう話はOKだけど、仕事の話は駄目ということです。特に、大学生に就職関係のメールを送ることは、固く禁じられていました。

これには日本のインターネットの発展の歴史が関係しています。当時、インターネット(この呼び名もまだあまり普及していませんでしたが)の運営の中心にいたのは、大学や公的研究機関などでした。企業の研究所は、研究プロジェクトに参加するという名目で、その仲間に入れてもらっていたのです。とはいえ、運営には公的資金も使われているので、企業の参加はあくまでも「研究目的」に限られています。メールのやりとりなどは、あくまでもネット使用の実験であり、それで企業が利益をあげてはいけないという理屈だったのです。

その数年後、日本にも"商用のインターネットプロバイダー"というのができ、会社もそうしたところを経由してネットに接続できるようになりました。こうしてようやく、会社の仕事に直接関係するネット使用が可能になったわけです。その後、業務に関係ないネット使用が原因の情報漏洩事故などがあり、ネットの使用について厳しいルールができるようになっていくのは、さらに何年も後の話でした…。

2024年12月23日 (月)

AI時代での情報検索 (2) 英語

2024年12月 6日 (金) 投稿者: メディア技術コース

技術コースの盧です.

前回はRAGのお話をしましたが,今回はその続き的な内容をお話します.

結論を先に書くと,真剣な情報検索には英語を使いましょう,とのことです.そもそも,情報の量と質,何れも日本語は英語に比べ物にならないからです.その典型的で良い比較になる例が一つあるので紹介します.

ここで例として挙げた Geri's game (Pixar, 1997) は,3Dアニメーションの歴史でかなり重要なアニメーション作品の一つです.アニメーションとしての面白さも勿論ありますが,この作品に先駆的な技術を導入した試作品としての意味が込められているから歴史的に重要な作品として扱われるわけです.

英語版の方は,全体の分量も長く,直接リンクを張っている技術(Technology)の部分だけで1ページ近くの分量が詰まっています.それに対し,日本語版は文書全部で1ページ程度の分量しかなく,内容もかなり浅いです.技術部分については,2~3行程度で軽く触れる程度で,その技術的な詳細部分も知っている人が分からない程度しか書かれていません.それなのに,トリビアとかが別途項目として独立して出ているなど,個人的には情報としてのバランス感もあまりよくないと感じます.日本語の文語は情報の圧縮率が高いとよく言われますが,資料の基本的な分量はその圧縮率を遥かに超えています.

さて,ここで以前お話したAIやRAGに戻ります.基本的にLLMに事前学習をさせる段階においても,まず英語と日本語とで資料となる文書の質が比べ物になりません.その上,情報検索しても出てくる資料もこの程度の差が出るので,生成型AIとしてもよい結果を生成するのは難しいわけです.

日々の生活に全て英語を使うのは至難でしょうし,私もそこまでは求めません.しかし,真剣な情報,特に卒研などでの情報検索は日本語という,地球規模ではローカルな言語は避けるべきかと思います.

2024年12月 6日 (金)

AI時代での情報検索 (1) RAG

2024年12月 4日 (水) 投稿者: メディア技術コース

技術コースの盧です.

ChatGPTがAIの代名詞みたくなっているような時代ですが,個人的には期待はずれの経験が多すぎて,もうChatGPTは使っていません.だと言って,私はこの類のサービスを全く使わないのか?それは違います.単純にChatGPTを使わないだけで,私も日々この類のサービスを使っています.

それで?私が何のサービスを使っているのか?こういう団体の公式ブログで直接サービスのお名前を載せると広告みたくなってしまうので敢えて実名は控えておきますが,私の主に使っているものの大枠だけ載せます.それは RAG (Retrieval-Augmented Generation) です.日本語では「検索拡張生成」とか訳されるそうです.

私はあくまで使う側の人間なので,仕組みについてそこまで詳しくありませんが軽く解説しておきます.

基本的にChatGPTみたいな最新のチャット・ボットは,裏に事前学習されたLLM(Large-Language Model)を持っており,質問をそのモデルに基づいて解釈し答えを生成してくれるような仕組みです.ここで,ChatGPTのようなLLMのみでは,答えを作る段階で事前学習されたデータにしか使えないため,構造的にいわゆる「嘘を吐く」幻覚(hallucination)現象が起きてしまいがちです.以前,どれほど使い物になるのか気になって,答えを知りながらも自分の専門の細かい内容だったり,趣味レベルでもかなり詳しい分野について質問したところ,個人的にはChatGPTの答えはもう信用できないと結論づけました.今は改善されている可能性はあると思いますが,構造的に一定水準以上の改善の余地がないのが分かっているのでもう個人的には使う意義を持ちません.

それに比べて,RAGは事前学習されたデータのみならず,裏で内容について検索を行った上,両方のデータに基づいて答えを生成してくれます.それで,基本的には下手な嘘は吐けない構造になっている訳です.なお,疑わしい結果に対しても元情報へのリンクを提供してくれてそこに辿れるわけで,出力結果への信頼性もかなり高いです.実際,いままで使ってて最終的には期待外れの答えを得た経験はあまりありませんでした.また,ちょっと意図とは違う結果が出てもすぐ修正プロムプトを入れれば良いです.基本的に結果への信頼性があるからこういう修正プロムプトを入れる甲斐があるわけです.

なので,私はChatGPTは全く使わないけど,こちらは頻繁に使っています.

2024年12月 4日 (水)

より以前の記事一覧