雑感

たくさん映画を見ましょう

2021年4月17日 (土) 投稿者: メディアコンテンツコース

みなさん,こんにちは。メディア学部実験助手の菅野です。

これまで私はこのブログで「プロのシナリオライターを目指すなら見ておいたほうが良い作品」を紹介してきましたが、過去にこんな記事を書きました。

「シナリオアナリシスでよくある質問(おすすめの映画)その2」

http://blog.media.teu.ac.jp/2020/09/post-0d02b3.html

『大変興味深いことなのですが、シナリオを書こうとする学生の中には「主人公が最後に死ぬ話を書きたいです」と言ってくる人が定期的に現れます。もちろん毎回別な人です。ところが、いざ具体的な内容を教えてもらうと「主人公が最後に死ぬ」という、構想だけが強すぎるせいか、唐突に「主人公が死ぬ」とか、特に必然性もないが「主人公が死ぬ」という内容だったりします。』

この記事で触れた、プロジェクト演習シナリオアナリシスに定期的に現れる「主人公が最後に死ぬ話を書きたいです」と言ってくる学生さんたちには、ある共通点があります。それは

「他の人とは違った特徴をもった作品に仕上げなければ注目してもらえない、と考えた」

・・・というものです。毎回別な学生さんなので、多少言い方が違ったりするので、「ありきたりの作品にはしたくなかった」「既存作品のパクりだと言われたくないから」など、ニュアンスに若干の差はあるのですが、端的にいうなら「新規性」「独自性」をなんとか出したいという、とても積極的な創作姿勢に基づいた思考です。そしてそれ自体は決して間違ったことではないです。

ただ「他の人とは違った特徴をもった作品」のシナリオを書くためには、他の人の作品をたくさん知って「他の人がまだ取り扱っていないことがなんなのか」を見極められるようになる必要はあります。

その点で言えば、安易に「主人公が最後に死ぬ」だけのシナリオを考えてしまうのは、既存作品のリサーチ不足から「主人公が最後に死ぬ作品は、他の人がまだ取り扱っていないに違いない」という思い込んだに等しく、「他の人とは違った特徴をもった作品」の見極めができていない、と自ら言っているようなものです。

前述した過去の記事では映画「グラディエーター」を取り上げていますが、妻子のかたきを討つために「主人公は最後に死ぬ」という点だけで見れば、それほど新しい発想ではありませんが、現代にはもはや存在しない、奴隷同然の剣闘士(グラディエーター)が、その時代の最高権力者を相手に、当時の、ありとあらゆる手段を用いて本懐を遂げるまでを描き切るとなれば、そのシナリオは「他の人とは違った特徴をもった作品」として認識されるに至ります。

シナリオライターになるためには「たくさん映画を見ましょう」というアドバイスはよく耳にしますし、ただ漫然と見るだけでは全く意味がありませんが、少しでも、意識的に既存作品との差別化されたポイントを見つけ出そうとして見ていたなら、それはシナリオライターにとって、間違いなく重要な知識となります。

そういう意味では、「他の人とは違った特徴をもった作品」のシナリオライターを目指す皆さんは「たくさん映画を見ましょう」

(文責:兼松祥央)

2021年4月17日 (土)

研究の分業:技術的な課題と本質的な課題

2021年4月 4日 (日) 投稿者: メディア技術コース

助教の戀津です。
昨日の記事で紹介した春木さんの研究について、リミテーションという観点から追加のお話です。
(まだお読みでない方は先に紹介記事をお読みください)

春木さんの研究は、本来「実在の」樹木を対象とするものでした。
実在の樹木をもとに、その中のどの枝をどう剪定すると、剪定後にどのように生長するというのを予測・可視化するというものです。
樹木の適切な剪定には高度の知識と経験を要するため、そこを補助するというのが目的でした。

これを達成するためには、まずは実際の樹木の形状をPC等に取り込む必要があります。
そこで、研究開始当初は樹木情報の取り込み方法について調査をしていました。

フォトグラメトリと呼ばれる、対象物をたくさんの方向から見た写真を大量に撮ることで3DCGとして取り込む技術があります。
観光地の大きな建物や、人間大の石像、小さいものではフィギュアなどが対象としてよく取り込まれています。
原理上はiPhoneなどのスマートフォンでも行えるため、多くの研究者や技術者が日々精度の向上に打ち込んでいる技術です。

しかし、残念ながら調べた範囲では現在の技術では樹木のモデルを得るのには向いていませんでした。
上で挙げたような建造物や像などは、細かな部品はあるにしろ一つの大きな塊の物体です。
それに対し樹木は、葉があると枝の様子を確認することができず、また冬季など枝だけの状態ではスカスカの形状になるためうまく取得ができませんでした。
一定の空間内に多数の細い枝があるという状況では、撮影する角度を少し変えると手前や奥にある枝が違う映り込み方をするため、空間的な配置の認識が難しかったものと思います。
何とかして枝の情報を入力できないか、春木さんはずいぶん試行錯誤してくれましたが、最終的には「今回は実際の樹木を扱わない」という結論になりました。

前置きが長くなってしまいましたが、ここからが今回お話したいことです。
本来の目的は樹木の剪定を補助することなので、もちろん実際の樹木を入力できることがベストです。
しかし、この研究は樹木の枝を剪定した後にどのように生長するかをシミュレーションするのが一番重要なポイントです。
仮に樹木の情報を入力できても、生長シミュレーションができなければ目的を達成できません。
逆に、樹木の情報は実在のものでなくても、シミュレーション方法が確立されていれば仮の情報でシミュレーションができますし、今後技術が発展し実在の樹木を入力できるようになるかもしれません。

この場合、フォトグラメトリ等で実在の樹木の情報を取得できないことは技術的な課題で、生長シミュレーションが本質的な課題にあたります。
こういう時に、「この研究ではこの部分は取り扱わない」というものをリミテーションと呼び、将来的な課題として論文で挙げておくという方法があります。

同じような例として、VR技術の研究があります。ヘッドマウントディスプレイを装着した仮想空間体験は、理論やプロトタイプは1960年代には研究されていました。
当初は機材が大きすぎたり高価すぎたり、また精度も低いものでしたが、体験に関する理論の研究は進んでいました。
それから多くの時が経ち、
多くの技術者が積み重ねてきた技術の進歩によって小型で安価な機材が市場に出回り、個人でもVR体験が行えるようになりました。
長い歴史をかけた壮大な分業ですね。これもまた研究活動の素晴らしい点です。

卒研という限られた期間において技術的な課題は必ずしも春木さん自身が解決する必要はないため、本質的な課題に注力するという決断をしました。
結果、生長予測と可視化部分の実装という形で成果を残し、学会発表も行う事ができました。

今後フォトグラメトリ(またはその他の技術)の精度が向上し、リアルタイムに目の前の樹木の形状を取得できるようになればより一層この研究の成果が輝きます。
その時が来るのを楽しみにしています。

2021年4月 4日 (日)

研究紹介:流量推定を用いたラテアートシミュレーション手法(学生奨励賞受賞)

2021年3月31日 (水) 投稿者: メディア技術コース

助教の戀津です。
今回は、3/18~20にオンラインで開催された、情報処理学会全国大会での発表のご報告です。

情報処理学会では、多くの投稿の中から似たジャンルの研究を10件前後まとめて、セッションという名前で発表会を行います。
そして、セッションごとに座長の選ぶ学生奨励賞というものがあります。およそ5~6件に1件程度選ばれるという形です。

私は柿本先生と一緒に卒研ゼミを担当していますが、情報処理学会は柿本・戀津研の研究内容と親和性が高く毎年何件か発表を行っています。
今年は2件の発表を行い、そのうち中村哲平君の『流量推定を用いたラテアートシミュレーション手法の提案』という研究が学生奨励賞を受賞しました!
去年は佐藤君白崎君、一昨年は渋谷君が学生奨励賞を受賞しており、私の着任前から合わせるとなんと6年連続の受賞です。

研究内容は、タイトルの通りラテアートについてです。
ラテアートはエスプレッソコーヒーにフォームしたミルクを注ぎ、その注ぎ方によってカップの液面上に模様を作るというものです。
流体力学によるシミュレーションをしたり、CGでラテアートの再現を行う研究は多くされていますが、今回はラテアートを習得する際の練習過程に着目しています。

実際にラテアートを練習する時は、水を使って練習します。本物のエスプレッソとミルクを使いカップに注ぐと混ざってしまい回収ができず、一回ごとに材料費がかかってしまうためです。(また、材料を無駄にしないために毎回飲まないといけないですね)
しかしもちろん、水をカップに注いでもラテアートの模様は描けません。そこで、この研究では水を使って練習しながらラテアートの模様を描くことで練習効果の向上を目指しています。

ラテアートの練習という目的に対し、当初次のような方法を検討していました。

La1

ピッチャー底部認識法と名付け、ゼミで検討をしていました。スマートフォンの画面に向かって注ぎ込むイメージで、実際のピッチャーを傾けるものです。
ピッチャーの底に円形のマーカーをつけ、内側カメラでマーカーがどのくらい楕円になって見えているかを検出することでピッチャーの傾きを検出、どのくらいミルクが注がれたかを計算するというものでした。

しかし、実際にこの方法を試行錯誤していたところ、意外とマーカーがうまく写らないことや、空っぽのピッチャーで注ぐ動作だけするのはイマイチといった欠点が見つかりました。
画面に向かって注ぐというのは大変直感的で魅力的ではあったのですが、本体が下にあることによって実際の水が注げないというのは大きな欠点でした。
そこで、中村君が新たに次のような方法を考えてくれました。

La2

新しい手法では、カップに向かって実物の水を注ぐという実際の動作に大変近い形を取りながら、カップ上部に据えたスマートフォンの画面上にラテアートの模様を描画できるというものです。
フレキシブルアームを使う必要が出てしまいましたが、スマートフォンが上に来ることによって実際に水を注ぐことができるようになりました。
これは当時柿本先生も私も想定していなかった新しい着眼点でした。学生本人が自身の研究について一番時間を使い、考えてくることで教員の発想を超えてくれるのが卒業研究指導の一番嬉しい時と感じます。

これを実現するには、画像処理を使った水の流量推定やリアルタイムなシミュレーション、カップ上への描画など解決すべき課題が大変多く、残念ながら今年度内の研究では練習手法までの完成には至りませんでした。
しかし、流量推定実験の結果までをまとめたことと、このアイディアが研究の肝となり、冒頭に書いた通り学会でも評価していただけました。
研究室で引き継いで研究を進め、いつか完成させたいと思います。

2021年3月31日 (水)

三上・兼松研の学生も無事卒業していきました!

2021年3月27日 (土) 投稿者: メディアコンテンツコース

みなさん、こんにちは。メディア学部助教の兼松です。

先日の萩原先生の記事でも紹介されていましたが,八王子キャンパスでは19日に卒業式が行われました.三上・兼松研の卒研生たちも無事卒業していきました.
もう耳タコな話だとは思いますが,今年度の卒研は遠隔中心ということで,かなり例年とは違った1年になりましたね.ゼミや普段の研究を遠隔中心でやることについては,人それぞれ感じ方が違うと思います.
ふとしたときに研究室にいる仲間と話したりできないといったことはもちろん,仲間の様子をみてモチベーションを高めたり,何かしらの締め切りに対する危機感を抱くといったことが,例年よりしづらかったといったこともあったと思います.
そんな大変な環境の中,今年度の三上・兼松研の卒研生たちは,私が当初考えてたよりもずっと仲間とうまく協力しあって,例年の卒研以上に毎週こつこつと進捗を出せていたように感じます.

今の状況が落ち着いたとしても,おそらくは今年嫌というほど体験した遠隔でのやりとり,遠隔を取り入れた仕事・生活はより一層身近で,重要なものになっていくと思います.
卒業生のみなさんは,メディア学の学士として認められたわけですから,今後も自分の専門性としてメディアをうまく活用し,社会で活躍してくれると信じています.

また,私自身のこととしては,今年度は私自身が指導教員を務めた学生を初めて送り出す年になりました.
研究の過程では一波乱も二波乱もあり,今思えば私自身もうまく導いてあげられなかったと感じる部分もありますが,まだまだ教員としては未熟な私の考えをよく汲んでくれて,かなりの成長を見せてくれたと感じています.
卒業式後に研究室で学位記を渡すのも初めての体験でしたが,正直ちょっと泣きそうになったのは秘密です.

(文責:兼松祥央)

2021年3月27日 (土)

鷗外と漱石(その2)

2021年3月21日 (日) 投稿者: メディア社会コース

本日は、漱石の作品における個人と社会との関係についてみてみよう。漱石の作品の中でも、その関係が正義を盾に戦っている作品として描かれているのは「坊っちやん」と「野分」である。坊っちやんも白井道也君も吾が道を行き、悔いることのない点で共通している。「吾輩は猫である」の苦沙味先生は胃痛に悩みながらも意地で権力に抗っているようである。漱石初期の作品は、社会、権力、特に「金」を向こうに回し、ユーモアに包みながら、痩せ我慢をして、潔い。

しかし、「三四郎」を境に漱石の小説は自己の存在をめぐり内に内に向かう。「三四郎」は美禰子との青春の一面を刻んだような牧歌的な物語にも見えるが、繰り返される「迷羊(ストレイシープ)」は、その後の自己と社会との関係を模索していく端緒のようである。漱石は、自己を突き上げるように内に向かい、社会との関係を、その最も近い男女のいくつかの関係に還元し、解き明かそうと苦悶する。

「三四郎」に続く三部作の、「それから」の主人公代助は、互いに好意を寄せていた三千代を友人に譲ってしまう。しかし不幸な三千代に再会したことから、親兄弟の庇護の元に保障された経済的基盤を失いながらも、不義に進む決心をする。「門」では、友人の許嫁を奪い、社会の一員たることを許されない境遇に身を置き、その暴露に怯えながら日々日陰に暮らしていく宗助と御米がいる。そして「こころ」では、自らの利己的な声に従い、騙し討ちのようにお嬢さんと結婚した先生は、Kの自死に直面して自己の存在を問い、否定してしまうのである。一方これらに登場する女性の存在と自我は、不思議なことにこの順番に背後に隠れていき、影のようになってしまう。

近代的な自我と自立の象徴、ヒロイン美禰子もまた旧来の秩序に組み込まれて終わる。美禰子は「われは我が咎を知る。我が罪は常に我が前にあり」と呟き、三四郎と別れる。これは、大野淳一氏「岩波書店、漱石文学作品集7の注」によれば、「『旧約聖書』詩篇第五十一篇中の詩句。その『咎』とはイスラエルの王ダビデがその部下ウリヤの妻バテセバと通じ、バテセバを奪うためにウリヤを戦死させたことである。」三四郎は最後に一人「迷羊(ストレイシープ)、迷羊(ストレイシープ)」と繰り返す。自己と他人、社会との関係に悶える、その後に続く作品を暗示している。

さて、わが稚拙な文学評論も以上で終われば、一応首尾一貫した見解が示せていると思う。しかし、こんな単純ではない。三部作と「こころ」にかけての時代には、「彼岸過迄」、「行人」、「道草」という長編がある。「道草」は漱石の自伝的作品と言われ、幼少期の養家との金銭的な葛藤が綴られた小説である。自身の生活が、時代を背景とする「家」の持つ因習によって思うに任せない。その意味で個人の存在と社会との関係をやや迂回しながら論じた感がある。

「彼岸過迄」は、同じ登場人物が交錯する短編からなる、やや異色な長編小説である。しかし、本作に通底するのは、「高等遊民」を自認する叔父を背景にした、自己の存在である。「行人」では、妻の真意を信じられない、語り手である主人公の兄の苦悶が、もはや小説ではなく哲学の論文のように綴られている。兄は弟と妻の関係を疑う。最後に兄は、妻という他者との関係に一筋の光明、安息を見出して閉じられるが、その後に書かれたものが「こころ」である。

遺作となった「明暗」では、妻お延を通じて初めて女性の視点が前面に出たように思う。為政者鷗外は女性の自立を支援していたが、公職に自ら距離を置いた漱石の小説では、登場する女性が主人公に呼応する存在であった。お延という「存在」は、初めて自らの意思で家族、知人を通じた人間関係、社会に対峙している。そして、未完に終わった「明暗」には、水村美苗氏による「続明暗」がある。漱石が完成させていたら「続明暗」になっていたかは知らない。しかし、苦悶の内に再び光明と安息を見出した漱石が見える。傑作である。

余談であるが、昨年度末に筆者の書いたブログの一つに、「2019年度 思い出す事など」がある。これは、漱石の同名の随筆の名を借りたものである。誠に畏れ多い次第である。

(メディア学部 榊俊吾)

2021年3月21日 (日)

鷗外と漱石

2021年3月20日 (土) 投稿者: メディア社会コース

ブログといえども、専門外の領域で素人の稚拙な見解を披瀝するなどは慎むべきである。しかし、今日学生諸君から文学は疎か読書の話さえも聞かないことから、本に目を向けるきっかけになればと、ここ数年改めて読み始めた鷗外と漱石について記してみたい。

二人は、改めて言うまでもなく、わが国近代文学を代表する文豪である。その著作は多岐に渡り、筆者の総覧できるものではないが、主題の一つに自己を通した個人の存在と社会との関係があるように思う。鷗外が、多様な思想、価値観の中に自己を相対的に、経時的に捉え、いわばシステムとしての社会の中に個人の存在を位置付けるのに対して、漱石は、自己を突き上げるように内に向かい、社会との関係を、その最も近い男女の関係に還元しているように思われる。

まず管見によれば、鷗外近代小説集(全6巻、岩波書店)から気づくことは、鷗外には、事実及び歴史に対して真摯、従軍あるいは大逆事件という時代の渦中にあって思想信条の自由と正義を組織の中から訴える勇気、そして自身の文芸活動に対する社会の批判に応える寛容が見られる。

鷗外初の長編小説に「青年」がある。鷗外は、主人公小泉純一に自身のことを「竿と紐尺とを持って測地師が土地を測るやうな小説や脚本を書いてゐる人」と言わせている。ここに鷗外の創作上のいわば設計思想があるように思う。すなわち、社会の中に現に存在する、価値観、規範、習慣、因習、風俗、法制度、経済活動、そして生活などを事実として観察、記録し、小説という構築物に創作している。現に鷗外は日々これら社会の動きを克明に日記に残し、近代小説の中の多くの作品は、現実の社会の事実をもとに、というより事実そのものの中に構築されていると言って良い。

いわゆるドイツ三部作の、「舞姫」、「うたかたの記」、「文づかひ」には、留学中の体験、社会事情の正確な記録である「独逸日記」に基づき、作中の人物を通じて、当時の王侯貴族、学生、市井の人々の生活が活写されている。いずれも文語調であるが、かえって浪漫と異国情緒が醸し出されている。

「うたかたの記」では、バイエルンのルートヴィヒ二世の溺死事件を物語の背後に置き、一方「文づかひ」には、実際に出入りのあったドレスデン王宮を舞台にドイツ貴族社会の伝統に抗うイイダ姫の自立が描かれている。そして「舞姫」エリスとの悲恋物語は、ベルリンを舞台に展開される。鷗外自身との直接的な関係の真偽はさておき、主人公太田豊太郎の、

(これまでの勉学を振り返り)余が幼き頃より長者の教えを守りて、学の道をたどりしも、仕の道をあゆみしも、皆な勇気ありて能くしたるにあらず、耐忍勉強の力と見えしも、皆な自ら欺き、人をさへ欺きたるにて、人のたどらせたる道を、ただ一条にたどりしのみ。余所に心の乱れざりしは、外物を棄てて顧みぬ程の勇気ありしにあらず、唯々外物に恐れて自ら我手足を縛せしのみ。」

(免官の身から帰国の望みを前にして)余はおのれが信じて頼む心を生じたる人に、卒前ものを問はれたるときは、咄嗟の間、その答の範囲を善くも量らず、直ちにうべなふことあり、さてうべなひし上にて、そのなし難きに心づきても、強て当時の心虚なりしを掩い隠し、耐忍してこれを実行すること屢々なり」

は、エリスとの関係と社会的存在の承認要求との間で切り裂かれる、痛切な告白である。

それでも鷗外は、「測地師が土地を測るやうな小説や脚本を書いてゐる人」である。自己の生来の性質について、小説「百物語」の中で「僕は生まれながらの傍観者である。(中略)僕は人生の活劇の舞台にゐたことはあつても、役らしい役をしたことがない。高がスタチストなのである。さて舞台に上らない時は、魚が水に住むやうに、傍観者が傍観者の境に安んじているのだから、僕はその時尤も其所を得てゐるのである。」と語らせている。鷗外の小説は、現実社会の鳥瞰図になっているのである。

鷗外にとって自己の存在は、社会との関係によって規定されている。鷗外は、軍医として官僚機構の中枢に身を置き、近代日本の行く末を見据えて日々政策の遂行や制度設計に勤しんできた能吏であり、科学者である。したがって、鷗外にとって自己の存在は、為政者の敷く法制度、近代化の中で声高に主張を始める経済活動、歴史の作り出してきた規範、因習、風俗、習慣からなる社会の諸相の中で、様々な現実的な問題として問われることになるのである。

鷗外は軍医総監を退官後も、帝室博物館(現東京国立博物館)館長、帝国美術院(現日本藝術院)院長を務めるなど栄達を極め、その活躍の舞台は、社会の中枢にあって、医学に限らず、夥しいほどに多方面に渡っている。しかし、鷗外は「余は石見の人、森林太郎として死せんと欲す」と遺したのである。

(メディア学部 榊俊吾)

2021年3月20日 (土)

メディアの輪~似顔絵は誰の?~(3)

2021年1月31日 (日) 投稿者: メディア技術コース

こんにちは。今回はに教員似顔絵シリーズ((1)コンテンツコース・(2)技術コース)の第3弾です。社会メディアコースと実験助手、兼任教員の村上先生と就職担当の山砥先生です。

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こちらの学部の教員紹介ページで答え合わせをしてください。

メディア技術コース 越智

2021年1月31日 (日)

メディアの輪~似顔絵は誰の?~(2)技術コース編

2021年1月30日 (土) 投稿者: メディア技術コース

こんにちは。メディア技術コースの越智です。以前紹介していた教員似顔絵の続編です。(前回のメディアコンテンツコースはこちら。

今回はメディア技術コースを取り上げます。以下の似顔絵は誰をモデルにしたものでしょうか??

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誰がどれかわかりたでしょうか?答えは、メディア学部教員紹介ページの技術コースの掲載順をご参照ください。

メディア技術コース 越智

 

 

 

 

 

2021年1月30日 (土)

【漫画の話題】領域展開に関するメディア技術コース的考察

2021年1月29日 (金) 投稿者: メディア技術コース

みなさんこんにちは。今回は、最近注目されている漫画作品である「呪術廻戦」に乗っかってその世界観についてメディア技術コース的に考察したいと思います。(あくまで私見による解釈であり、実際の作品の設定とは異なることはご承知おきください。)メディア学部らしい記事ですよね。

(1)設定について
作品をご存じない方のために、今回考察する設定についてお話します。物語の重要な登場人物である高専教員・五条悟先生は「無下限呪術」なる技を持っており、とくにそれが発揮される有利な状況である「領域展開”無量空処”」をすると、その領域に入った人は無下限呪術の技を受けてしまいます。以下、設定の一部ですが、それぞれの概略を示します。

  • 無下限呪術 相手の物理的攻撃(殴打など)が「永遠に」直前に留まって当たることがありません。
  • 領域展開”無量空処” 入った人に無下限呪術が適応される特別な領域を作ること。その領域に入った人は、感覚情報が「永遠に完結せず、故に何もできない」といいます。

他にもいろいろ設定はあるのですが、以上2点に絞って考察します。


(2)仮説:無下限呪術はアナログな時間の進行を操る技である
作品内の説明によると、「無下限呪術」により打撃が永遠に当たらない秘密は、古代ギリシャの時代から考えられているパラドックスの一つ「アキレスと亀」にあるといいます。俊足のアキレスが遅い亀を追い抜かそうとした場合、ある時刻にアキレスがa [m]の地点にいて、亀が b の地点(b > a)にいたとすると、秒後 ( 以下、秒の単位は s と記載し、t [s] などと書く)にアキレスが に到達したときには亀はc (c > b)にすでに進んでいます。アキレスがcに到達したころには、亀は(d > c)に到達しています。こうして、いくらアキレスが亀がいた場所に進んでも亀はその間に先に進んでいるため永遠に追い抜かすことはできないという話です。

このパラドックスは、結局のところ、実際にアキレスが亀を追い抜く時刻 T (仮に両者が等速運動をしているとしてアキレスが秒速v [m/s]、亀が秒速u [m/s]とすると T = (b - a) / (v - u) なのですが)があったとしても、そこまで先については、言及していないということになります。つまり、時刻 T より前の時刻で起こっている亀とアキレスの競争を「無限に細かく時間を刻んで述べている」だけに過ぎないのです。

呪術廻戦においてこのパラドックスが技に応用されているとすると、無下限呪術の実行者(五条先生)に打撃を与えようとする拳は、その直前に五条先生の体の前で無限に細かく刻まれる(いつまでも時刻tが t < T のままで)ことにより本来打撃が当たるはずの時刻 に永遠に到達しないことになるのではないでしょうか。

(3)では領域展開”無量空処”は?
こちらは、「領域」に入った人がその無限に細かく刻まれる時間の流れに、体が部分的に巻き込まれると解釈できるのではないでしょうか。人間のニューロンはある値を超える電圧の信号のパルス(スパイク状の信号)が連続して一定時間以上入力されると「発火」という活動状態が生じ、次のニューロンへと情報が出力されます。これは、人工知能のアルゴリズムの一つで現代に広く用いられているニューラルネットワークでもこのモデルが使われています。ニューロンは複数が並列に並んでいて同時に発火したりといった並列の処理ができるのですが、一個一個のニューロンが発火できる頻度、つまり脳が局所的に情報を処理できる速度には上限があります。

「無量空処」によって例えば脳が処理をする時間間隔が無限に近く細かく刻まれていったらどうなるでしょう。視覚や聴覚から入ってきた情報は、各種のニューロンを発火させて次の階層のニューロンへと伝えられますが、それが仮に1秒間に本来10回~数十回程度だったものが、1秒間に数万回になったとしたら、情報を与えられる人間にとっては1000倍の時間でゆっくり情報が与えられたかのようになるのです。


そもとも視聴覚などに入力される光や音の自然界の情報は、アナログ情報のため、時間軸上は無限に細かく取得することができます。しかし人間側は、ひとつひとつのニューロンは局所的にある意味デジタル的な逐次処理をしていてその1ステップ1ステップが1秒間に膨大な回数行われるようになると、メディア学的には「フレームレート(動画像の場合は1秒間の処理画像枚数)は上がるが、1秒間の処理は延々に完結しない・・ゆえに何もできない」という状況になるのです。

Blog_kiku

(画像:呪術廻戦にハマって領域展開のポーズをする菊池先生の3Dモデル)

メディア技術コース 越智

 

2021年1月29日 (金)

学会ハイブリッド開催騒動記

2021年1月10日 (日) 投稿者: メディア技術コース

メディア学部の渡辺です。こんにちは。

既にこのブログ内で私の含む多くの先生方が報告しておりますが、11月1〜3日の期間に大阪の関西大学で「NICOGRAPH2020」という学会が開催され、メディア学部やメディアサイエンス専攻からも多数の学生が発表を行いました。私の研究室でも6名の学生が発表を行っており、以前にその紹介記事 (その1, その2) を掲載しておりますが、今回は運営側としての立場でお話ししたいと思います。

この「NICOGRAPH」という学会は「芸術科学会」という学会が主催しているもので、毎年1回行われます。今回の「NICOGRAPH2020」で私は「プログラム委員長」という役目を担当していました。どのような役職を設定するかは学会によっても異なるのですが、NICOGRAPH の場合は大きく「実行委員会」と「プログラム委員会」の2つの委員会があり、それぞれの役割をこなしていきます。私が担当したプログラム委員会は、論文を募集したり、その論文の査読(審査)を取りまとめたり、当日のスケジュールをまとめることを主なお仕事としています。どちらかというと、開催当日よりもそれまでの準備の方がメインであり、いざ当日となるとほとんどすることはありません(普通は)。私も、1年前に打診を受けた時はそういった仕事であることは理解した上で引き受けていました。

しかし、今回の学会は例年とはまったく事情が異なりました。言うまでもなく、新型コロナウイルス感染の件です。これにより、そもそも学会の実施形態をどのようにするのかという時点から問題となりました。

論文募集は大体5月くらいから開始するのですが、そのときは「オンライン開催」にせざるを得ないという話で当初は進んでいきました。しかしながら、実行委員長である関西大学の松下先生から「実際に現地で開催しないと大学側から会場費の支援を受けられない」という話があり、現地での開催でないと実施が難しいということになってきました。

ここからまあ色々紆余曲折あって、結果的には「現地と遠隔の両方のハイブリッド開催」ということになったのですが、これが本当に悩ましいことが多く、しばらくはぐっすりとは眠れない日々を過ごしました。(このあたりは書き出すと本当に長文になるのですが、あまり面白くない議論が多いので割愛します。)

今回のことで身に染みたのは、個々の意識が実際は乖離していても、案外気がつかないということでした。コロナに対する各大学の対応というのは、我々教員が思っていたよりも随分学校による差が激しいのです。かなり積極的に対面授業に移行している大学もありますし、一方で大学からは遠方の実家で遠隔にて受講している学生が多数いる大学もあります。印象的だったのは、感染者が多い都会の大学ほど対面や出張に緩く、感染者の少ない地方の方がむしろ厳しい通学や出張の制限を行っていることが多いことでした。そういった意識の差をあまり認識しておらず、どの委員も自分の大学での状況を「他も大体こんなもんだろう」と思い込んでいたわけです。

そのため、実際にすりあわせを行う段階で大きな混乱が生じてしまいました。ある委員は「誰も現地には赴けないので、全面オンラインが現実的」と考えていましたし、また別の委員は「ほぼ全員が現地に集合するので、遠隔参加は断ってもいい」と考えていました。それがわりと方針決定期限ギリギリでわかってきたため、方針決定はなかなかに難航しました。

結果的には「ハイブリッド開催」ということで、当時はまだそれほど感染状況がひどくはなかったので私も現地にて参加しました。今年度中では最初の、そして現状を考えるとおそらく唯一の学会出張となりました。もっと早く「ハイブリッド」で行くことが決定できれば色々と準備を進めて行くこともできただろうという反省もなくはないですが、それよりも結果的には非常に難しい仕事をなんとかこなせたことに安堵しています。いつも学会の仕事を涼しげにこなしていく方々には本当に頭が下がる思いです。

(メディア学部教授 渡辺大地)

 

2021年1月10日 (日)

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